odd_hatchの読書ノート

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石川淳「六道遊行」(集英社文庫)

 六道とは仏法で言う天上から地獄までの六つの世界のこと。たいていは死んでは別に生まれ変わり、前世の行いで持って次の道が定まるのであるが、ここに上総の小楯なる盗賊の頭は大杉の精・白鹿の導きによって、奈良の時代と昭和の時代を行き来することになった。そうしてみると、人間の煩悩と欲得は同じとしてもその方向が違うとなれば、上総にとっていずれが正道であるかは見通しがたい。すなわち、盗の賊頭であることはひとえに誉れと誇りを持つべき生業であるとはいいながら、時勢は藤原仲麻呂道鏡なる大坊主の野心によって盗をなすことが権勢のもと、人の振る舞いは道をはずれに外れているのだ。それゆえ、小楯は咒(じゅ)を己の方法となすことをめざすのであるが、かの年三十に満たぬのに密教の奥義を窮めるのは不遜というのか、おもわぬ邪魔が入る。それは奈良の杉の大木の精がもたらした白玉にほかならない。それはいぞこともしれぬ外の世界を見させるものであった。
 ここで小楯の運命は二つの世界の時勢をしっかと見届けることと定まる。

 この世にあっては、東大寺大仏開眼から道鏡失脚にいたる宮廷の謀(はかりごと)である。奈良の世界の住人にはかいまも見えぬ雲上人とはいえ、盗の住人であれば上から底まで自由に行き来でき、小楯の名声は宵闇でとりわけ高いとなれば、そこに人材は集まり、心根をそこまで見届けていないものは道を明けるのである。彼の配下には、安房の飛魚と梟の沙弥の両腕がそろい、七瀬なる白拍子が座を華やかにする。捨て子が己の意思で運命を開いてきたと思しきイタチの伊太はおいおい賊を率いるかしらとなろう。というのも、小楯の言葉を盗んでかき回してはいっぱしの言葉を吐けるまでになるからである。彼らの隠れ家からほど遠くない宮廷では毎年のごとく、天皇家と藤原家のいさかい、というより寝技に揚げ足取りに買収、密告、讒訴が競っている。今日の繁盛も明日どうなるかはわからず、多くの宮廷人が現れては消えた。残るのは、武と警に凝り固まった舎人の武熊か。彼はいずれ小楯と雌雄を決するために太刀を合わせもしよう。
 白鹿の小楯に携えたものは、白玉であるが、杉の大木の洞を入り、砂の零れおつるにあわせて行った先は、昭和元禄の世界か。己の裸の見事さを武器に貧困から這い上がろうとする女・真玉とそのヒモで名のない道化。こやつらに白玉を投げたところ、真玉の秘所に白玉はもぐりこみ、玉丸なる男児を生む。これこそ白鹿の愛児にほかならず、小楯は白鹿の意向のあるまま、この世とその先の世を行き来しなければならない。真玉は老齢の興行師・浦見大造を手玉にとるべく、結婚という形式を身にまとうものの、必要なのは大造の金。玉丸の教育と称して幼稚園に大学を設立するものの、それは古い宮廷のサロンそのものであり、淫蕩さにかけても往古に類を見出せない。となると、邪魔なのは大造の身であるが、それもまた探偵小説の古い仕方の時間をかけた殺人となるであろう。
 冒頭においてこそ、小楯は俊敏な身の動きと頭の回転の速さを見せ付けるものの、白鹿の頼みをきき、玉丸の行く末をみるようになると、心はともかく、体の動きはとまり、すなわち見ることに専念するものとなる。この世においては隠れ家での酒宴が繰り返され、その先の世では真玉の寝室での会話となるのである。ここでは世の行く末は小楯一人の介入ではなんともならず、とはいえ人の心根の寒々しさは同じとなるのであって、小楯の躍動もおのずと制約されることになろう。
 いったい、この小説においては過去はなく、未来もなく、ただ現在のみがかかれ、因縁はあっても因果は生じず、建前と本音の使い分けは陰謀か事業にはあっても、人々の心根や会話にはない。いったい自我にとらわれるような小人はなく、読者が持つような下世話で空疎な思弁を弄するものもなく、きれいさっぱりと表層しかない。となると、これは近代の小説がいろいろととらわれ、逡巡と彷徨を繰り返してきたものとは無縁なのである。なるほどたしかに、物語は伝奇小説か冒険小説かという仕掛けをもっているであろうが、じつのところ、行動にも恋愛にもさほど関心がなく、そこにあるのは文章をよむというその悦びのみがある。著者80歳を超えるとなると、俗なる権威も金も性も冒険も十分に楽しんできたのであって、後にのこるは文章の妙味を味わいつくすということか。鹿の集団に囲まれて、ようよう葛城山に向かうことのできる小楯を迎えるのは、豊穣な文の世界であるに違いない。

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