2013/09/23 笠井潔「群衆の悪魔」(講談社)-1 の続き。
その変化を探偵たちはパサージュを通じてみた「群衆」の現れにみる。群衆は都市と産業化によって誕生した新しい人々の群れ。その特徴を探偵は以下のようにまとめる。
1)徹底的に他人
2)階級的性格が欠如。社会秩序が崩壊。
3)何かの対象を媒介にして間接的な関係を持つ。それは流動的で離合集散を繰り返す。
4)古典的・政治的な「人間」は消滅するが、無表情で精神性を欠いた無内容な個人としての「私」が残る。
このような群衆は、大量工業生産ができ、社会インフラが整い、絶対的な貧困が消滅すると誕生する。それは人々が移動して村落共同体や職能共同体から離れることができるようになり、家庭内労働が産業化されて家事負担が減少することにも関係している。まあ余暇ができて暇になり、移動可能なところに一時の憂さ晴らしのできる遊び場ができたからだ(重要なのはその遊び場、ここではパサージュのような商業施設にパノラマのような遊技場、が男女や経済格差の差別のない場所だったというのも重要。それ以前では、遊び場は男女別に作られ、階級ごとに区別された)。
これは新しい「人々」のありかた。ブルジョア、貴族、農民のような階級ではないし、メンバーが固定されているわけでもないし、なにかの政治的主張を持つわけでもない。それは不気味で無個性で無内容な集まりだ。探偵によると、この「群集」は実体ではあるが、同時代の思想家は正しく認識していないという。サン=シモンのユートピアは宗教共同体、プルードンのアソシエーションは地域・職能共同体の延長、マルクスのプロレタリアは生産工場の非熟練労働者。それは実体を持たないか、すでに解体しつつある人々の集まりしかみていない、という。
さらにこのような「群衆」に対置するような新たな人が生まれている。それが企業人。かれらは資本の拡大とそこからの利潤の分け前を最大にするために、まず企業の効率をあげる。それに成功すると社会の企業化、国家の企業化に取り掛かる。かれらは政治的主張を持たない。王がいようが、大統領制だろうが、議員政だろうが関係ない。全国家に張り巡らされた企業化の網目が効率的に働き、利潤が上がればよいのだから。労働者、農民が反抗するときには弾圧する側になるから、軍隊や独裁者と親和性は高いだろう。そのような企業人が生まれ、政治に関与するようになった。
そうすると、この2月革命であらわになったのは、無名人の「群衆」と顔のある「企業人」の対立として読み直すことができるだろう。実際に、2月や6月の蜂起でバリケードを作り射殺された無名の人々は「群衆」に所属する貧困者や市民であった(劇中人物が「蜂起は市民の神聖な義務」といったのが印象的)。蜂起の場では、存在の炎を燃やす超越を体験するものもいたであろう。主人公の青年シャルルは、超越体験のために詩作、アシッシュや酒、女との性交に明け暮れるが、超越体験の持続性のなさに失望している。そのときにみた蜂起の輝きに見せられる。一方、新聞社主ジラルダンは政治的主張のないのに、企業化のために議員に立候補し、政策に関与する。重要な人物の一人はルイ・ナポレオンの擁立のために暗躍する。
2013/09/25 笠井潔「群衆の悪魔」(講談社)-3
2013/09/26 笠井潔「群集の悪魔」(講談社)-4 に続く。