江戸時代の古典の現代語訳。「宇比山踏」を除いて昭和17年に刊行された。どうしてこのような現代語訳をしたのか、なにかの雑誌に初出があるのかは不明。まあ、この時代、作家は自作の小説を発表することはほとんどかなわず、蟄居生活に入っていた。そのとき江戸の本を渉猟したらしい。なるほど江戸の戯作の文体は、のちの小説で自由自在に使われ、融通無碍で奇態な小説世界にふさわしかった。
癇癖談 ・・・ 上田秋成57−8歳のころ、寛政三、四年1791年ころの作とつたわる。題名は「くせものがたり」と(むりやり)読む。冒頭は「むかし」で始まるので、伊勢物語の仕掛けを踏襲したものと思われるが、類似はそれまで。作者の見聞した町のうわさばなし、都市伝説を書いているらしい。訳者(石川淳)の解説によると、実在人物の登場することから、当時の世相を映したものらしい。とはいえ、現代の読者にはその詮索まではいらないなあ。およそ近代の物語の定型を踏まないものだから、途中でわき道にそれていったきりになる話もあれば、落ちのまるでわからない話もある。なにより当時の人々の感情とか常識がわからないものだから、なんともいいがたいもやもやした感が残る。
諸道聴耳世間猿 ・・・ 上田秋成33歳、明和三年1766年の作。町人商人の滑稽噺、おとしばなし。古今の故事を枕に商人の失敗やずっこけをみじかくまとめる。オチが必ずあって、笑いを誘う。ほとんど落語の構成だね。あと、商人がこのころには武士と対等の会話ができるとか、市はたたず商家が年中販売しているとか、製造と販売が分業になっているとか、経済の変化がみられる。
収録作は、要害は間にあわぬ町人の城廓/孝行は力ありたけの相撲取/器量は見るに煩悩の雨舎/身過はあぶない軽業の口上/昔は抹香姻たからぬ夜咽/浮気は一花嵯峨野の片折戸
西山物語 ・・・ 上田秋成35歳、明和五年1768年の作。今は昔、ある村に七郎・八郎という二つの家があった。七郎にはかえという娘、八郎には宇須美という息子があり、人知れず二人は誓いを立てていた。さて七郎の家には数代前にある刀を寺に奉納していた。というのも刀を持ってから怪異が起きるためである。七郎は自分が不遇なのを悔やみ、刀を取り戻した。そこから七郎の家には不運が起こり、宇須美とかえは割かれ、七郎と八郎の仲は悪くなるばかり。ある夜には、怪異の末に大声で刀を捨てよとわめかれる。それらをひとえに背負い、一人立ち向かう七郎。親子二世代の確執も絡んだ本邦版ゴシックホラー。これはホラーマニアに読まれるべきだなあ。
宇比山踏 ・・・ 本居宣長69歳、寛政十年1798年の作。題名は初い山踏であって、古学初心者への学問指南書。なかなか今日でも有用なアドバイスがある。
「不才の人でも怠らずに努めよ」
「志は高く、覚悟を決めて(学問に)かかる」
「大部の本はあとまわし」
「参考書は順序を決めて読む必要はない」
「(勉強分野を)広めすぎるのはよくない」
「言葉は文脈に依存して意味が決まるから、辞書や語源にこだわらない」
「わからないところはそのままにして先に進む(あとで立ち返ることが必要。そのときには理解できるようになっている)」
「よくわかっているところにこそ思い込みが潜んでいるから、注意して読み、深く味わえ」
こんな具合。ライフワーク「古事記伝」を書き終えたので、きおいてらいがなくなって平明。自分にとってはこのような学問の方法がおもしろく、宣長の思想はよくわかりません。おもしろかったのは、近世の神事の作法は儒の真似が入っていて古式ではないという指摘。18世紀にあってすら、そういう指摘があるとは。まあ、「伝統」といっても時代で変遷し、別の影響を受けたりして、いつの間にかもともととは異なるものになってしまうということ。この書でもしきりと「漢風」「後世風」に染まるのに注意を促している。
古典を読むときの難しさは、現代の読者や作家と違って、物事の見方、関心の持ち方が異なっていて、古典で詳しく描写してあることが読者にはおもしろくないことが多々あること。たとえば、髪の結い方や着物の柄や色、髪飾りなどだし、因果や道徳の長い説教だし、家の因縁だし。それをクリアしてなおも今度は人物の感情を理解するのがむずかしい。この現代語訳でも、自分にはなかなか歯ごたえがあって、物語がすらすらと頭に入らなくて難渋した。それでもいくつかは現代の物語に近いものがあって、それはとても面白い。難しいのと面白いのが混ざっていて、陶酔(睡魔)に読者を誘う。
あとは作家石川淳の文体の多彩さをたのしむことになる。上田秋成の3編は、趣味人の随筆、商人の滑稽譚、武家の因果話と、話者と登場人物の違いを文体で分けている。
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