もう一編はファーガス・ヒュームの「二輪馬車の秘密」(1886年)。彼の最初の作で、オーストラリアで出版され、翌年ロンドンででて大人気になったそうな。中学生の時からタイトルになじみがあり、なぜこんな古い探偵小説を知っているかというと、江戸川乱歩のベスト30で古典編に載っていたから。いったいこのベスト30は戦後すぐに作られたもので、当時は簡単に入手できたものだろうが、とりわけ古典となると、1970年代にはドイルとルルーとコリンズ「月長石」を除くと、まるで見当たらなくなった。せいぜいザングウィル「ビッグ・ボウの怪事件」、ガボリオ「ルコック探偵」、ガボリオ「晩年のルコック氏」があったくらい。なので、2007年に出版されたときは、意外な訳者とあわせてとても驚いた。
メルボルンの町中、7月のある深夜、泥酔者と特長のある外套を着た二人が二輪馬車を呼び止める。泥酔者は乗ったが、外套の紳士は立ち去ってしまう。戻っては来たものの、再び離れ、二輪馬車が指定のところにつくと泥酔者はクロロホルム中毒で死んでいた。身元不明であったが、イギリスからの旅行者を調べていくと、ようやく名が知れる。驚いたことに、彼は町の百万長者フレトルビイ氏の一人娘マッヂと婚約している男性であった。マッヂは実は別の男性ブライアン・ゲラルドといいなかであったのだが、父によって死んだ男オリヴァー・ホワイトと無理やり結婚することになったのだった。
さて、物語は探偵が事件を調べ、当夜ブライアンが似た色の外套を着て、同じ町をうろついていたことを知る。そしてマッヂと父マークにすげなくされているのを不満に思っていたのもわかり、彼は逮捕される。一見落着かにみえたが、別の探偵がブライアンのアリバイを証明して、無罪が宣告。事件は振り出しに戻る。まあ、このあたりの捜査は19世紀のものであって、物証を取り上げることはほとんどしない。関係者の話を聞きながら、動機のありそうなものをみつけ、尾行し、立ち聞きする。20世紀の探偵は、犯罪現場に執着して、なぜ被害者はそこにいたのか、どうやって被疑者は立ち去ったのかなどをこと細かく考察する。そんな具合に犯罪現場が魅惑的な、フェティッシュなものになったのはいつからだろう。
容疑者ブライアンや被害者オリヴァーの友人ロジャー・モアーランドらを追尾するうちに、探偵はメルボルンの貧民窟にたどり着く。それはオリヴァーの死の前にある美人女優と会っていることが知れ、彼女は裕福であるそうなのに、そんな貧民窟に宿をとったのだった。ここからは現在の事件のために、過去の事件をほじくることになる。なにしろ貧民窟にはアル中の口やかましい老婆がいて、まるで宝石を守る魔女かドラゴンのごとく、悪態をつき、秘密をかたくなにしまっているから。この婆さんの描写がなかなかすばらしく、「罪と罰」のソーニャの母を思い出すよう。この婆さんと美人女優、そしてフレトルビイの若いころの関係が浮かび上がっていく。結局、これらの老人たちのトラウマが現在に蘇ってきたとき、二輪馬車の恐るべき事件にまで人間関係は沸騰していったのだ。このあたりの過去のロマンスとそのトラウマは、ロス・マクドナルドのものだな。時代は変わっても、家族や夫婦の人間関係は相変わらずのものであるらしい。
ここらは牽強付会な意味づけかもしれなくて、物語は意味を考えさせるような複雑さを持っていない。現代の読み手からすると(1930年代の読者でもそうだったらしい)、強引で無理やりなストーリーになっているし、登場人物も古めかしい描写。なるほど「古典」という枠組みの中ではベスト10に選出することも可能だが、現在の読者は無理に読むほどのものではない。俺のような好事家、マニア向け。19世紀の長編を読み通せる根気をもつか、当時の風俗に興味ある人だけのものでよい。
解説にもあるが、前半はほぼ忠実な訳のようだが、新青年初出時は後半(ブライアン無実評決が出た後)を200ページあるものを30ページくらいにまとめてしまった。19世紀の探偵小説、新聞小説にあるような昔話のロマンスをすっ飛ばしたわけだ。おいらには単行本版(この文庫の元)の長たらしいバージョンのほうがよかった。雑誌掲載は昭和3年、単行本は昭和5年。
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