ユダの窓とは「監房の扉についておって、看守などが、中の囚人にさとられないようにのぞきこんだり調べたりするための、蓋のついた小さな四角いのぞき窓のこと」(P259)だそうだ。ポイントは、中の囚人にさとられないということ。ということは、看守(この小説では犯人)は存在を知っていることになり、事件発生の段階では囚人(この小説では被害者)と同じ視点にたつ読者には存在を知られない。それが、探偵によって看守=犯人の視点を獲得すると、ごくあたりまえの存在になる。その視点の移動が、謎の解決に重要というわけ。
ジャイムズ・アンズウェルは、許嫁のメアリー・ヒュームとの結婚を承諾してもらうために、メアリーの父エイヴォリーを訪ねることにする。メアリーから聞いているはずなのに、なぜかエイヴォリーは慇懃無礼でよそよそしい。勧められたウィスキーソータを飲んだら、急にめまいがして20分ほど昏睡していたようだ。目を開けると、エイヴォリーは壁にかかっていたアーチェリーの矢を刺されて、絶命していた。窓はシャッターが下ろされ、扉には鍵がかかっている。というわけで、出入りのできない部屋に一つの死体とひとりの青年がいて、どうしても青年が殺人を犯したとしか思えない。アンズウェルは身の証を立てようにも、ウィスキーやグラスは棚に未使用のまま置かれている。
さて関連していくつか不可解なことが起きている。エイヴォリーの弟で独身のスペンサーは、アンズウェルが犯人だという手紙を残して巨大なスーツケースとともに失踪。隣家のフレミングはアーチェリーをいっしょにする古馴染みだが、エイヴォリーとそりが合わないのかジェイムズを嫌うのかよくわからない。メアリーはエイヴォリーに、ジェイムズの従兄レジナルドに脅迫されていると相談していた。強制的にヌード写真を撮られて、金をせびられているというわけだ(このころには家庭用カメラと巻き取りフィルムが普及していて、素人のカメラ好きがたくさんいたのだった)。エイヴォリーの慇懃無礼さは、どうやらレジナルドを罠にかけるためであったらしい。エイヴォリーは「アンズウェル」という名前しか気にしなかったので、ジェイムズとレジナルドを間違っていたのだ。
一方、エイヴォリーを殺したアーチェリーの矢は人の手で刺されたのではなく、石弓(ボウガンのことか)で発射されたのがわかる。実際に、エイヴォリーの所有する石弓のひとつが紛失していた。
この小説のおもしろいのは、法廷場面だけで書かれていること(プロローグとエピローグを除く。ときに控室でH・M卿のお惚け話を聞くこともある)。1章くらいを法廷場面にするのは、古くからあるが(と言ってタイトルを示せないのだが*1)、ほぼ全編を法廷場面にしたものとしては極めて早い(さすがと最初とは断言できない)。
ということは、事件の記述は時間の経過と一致しない。事件の関係者の証言を聴くことによって、断片的に事件の輪郭がはっきりしていく。このようにストーリーとプロットが乖離しているので、読者は探偵と同じように、ストーリーからプロットを再構成しないといけなくなる。この小説では、ジェイムズが訪問してから事件が発覚し拘束されるまでの4時間(重要なのはそのうちの30分)なので、プロットはハードボイルドほどには難しくない。それに事件の関係者の入り組みもそれほど複雑なものではない。犯人の数年間分の思いを回想するくらい。これもハードボイルドほど長くはならない。
まあここでは、H・M卿が思わせぶりにくちにする「ユダの窓」がどこにあるかにドキドキしましょう。あまりに人口に膾炙したために、今では陳腐なアイデアに思われるのが残念。発表当時からしばらくは、このアイデア一本で名声を獲得したのだが、むしろ今ではプロットの緻密なところに驚くべきかな。エイヴォリーやスペンサーの奇妙な振る舞い、召使に女中への指示、悪党レジナルドの暴露、ジェイムズの不可解な沈黙(カーにしては珍しくこの好青年は冒険しない)、こういう奇妙さがひとつの図にぴったりと収まる快感。こちらのカーの手腕を賞味しよう。トリックの実行可能性を追求するだけではもったいない。
とはいえ、カーの異色作なので、入門にするのは控えたほうがよい。笑いが少なく、オカルト風味も欠けているから、カーを堪能しきったとは言えないなあ。1938年発表。
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