専門のわからないグリモー教授は無給で博物館などの仕事をしていて、とくに吸血鬼伝説に造詣が深い。愛好家の友人らを酒場でその話をしていると、ピエール・フレイなる奇術師がおかしな話で割り込む。それを聞くとグリモー教授は顔色を変え、そこにいた新聞記者マンガンに訪ねてくると脅かす者がいると語り、用心のために大きな画を買ったと意味不明の言葉をもらす。その夜、雪がふりだし、グリモー邸の庭に積もる。書斎にこもったグリモー教授のもとを仮面をつけた大男が訪問し、そのまま教授の書斎に入った。しばらくした10時10分に銃声。内から施錠されたドアを破ると、胸を銃弾で撃たれた瀕死のグリモー教授が倒れていた。緊急搬送するさいにも、おかしな言葉をつぶやく。
あとでわかったのだが、ピエール・フレイが路上で射殺されているのが発見された。グリモー邸から歩いて数分のカリオストロ街でのこと。時刻は10時25分。街灯で照らされた路上にひとりでいたフレイに「二発目はおまえにだ」という声とともに銃声を聞いている証人がいる。困ったことに、路上および周辺の建物の影には誰もいないうえ、雪には足跡もない。銃弾は至近距離から発射されていて、近くに落ちていた拳銃はグリモー教授を射殺したもの(搬送の数時間後に死亡が確認)と同一であることがわかった。
カーの不可能犯罪のなかでもとびきりの不可解な状況。なにしろ、第1のグリモー教授の事件は書斎が密室だったうえに、グリモー邸の庭に降り積もった雪には訪問者以外の足跡がない。第2の事件は、人の注目を浴びている状況にもかかわらず犯人の目撃と痕跡が残っていない。犯人は同じ拳銃をもって、二つの事件を起こした後、こつ然と消失したのだとしか思えない。それこそ吸血鬼が現代によみがえった?(という推断は登場人物の誰もしていないのだが)
グリモー教授はフランス人と思われていたが、実はハンガリー育ちのマジャール人であることが知れる。しかも、生きながら埋葬され、必死の思いで脱出したという3兄弟の一人であった。他の兄弟も同じ目にあったのだが、グリモー教授と同様に脱出できたのだが、教授は彼らを見捨て、ついでに国も捨てた。なので、犯人はこの兄弟の復讐であり、そのひとりは奇術師フレイであることもわかり、正体不明の3番目の兄弟ではないかとハドリー警視たちは推測する。
書かれたのは1935年。まあロシア革命の勃発、そしてスターリンの粛清でハンガリー人は絶えず国外に亡命していた。ドイツやフランスにはそのような人々がたくさんいたのだろう。この時期だと排外主義の運動もあって、肩身を狭く過ごしていたのではないか、と危惧する。といいたいところだが、グリモー兄弟の亡命の理由はもっと陰惨なもの。裏返された「モンテ・クリスト伯」みたいな愛憎と冒険の劇があったと紙面から推測する。
興味深いところは多々あるのだが、なにしろ記述がとてもたんたんとしていて、第1の事件は開巻30ページまでに詳述されるが、その後100ページまで尋問が続く(ここでグリモー邸には教授の娘、秘書、家政婦の3人の女性がいて、それぞれ角付き合っているというなんとも厄介な状況がわかる)。第2の事件のあとも、腰を据えたフェル博士のところに関係者がやってきては長広舌をふるうという次第。なんとものんびりした描写で、キャラクターの性格も弱いとあって、ときにあくびをかみ殺すしだいになった、と告白せねばなるまい。
とはいえ、フェル博士の「さてみなさん(とはいっていないが)」から始まる謎解きはなんとも錯綜した複雑なもの。実のところ、第1の事件の密室のトリックはツマにしかおもえないほど、プロットは凝っている。要領のえないさまざまな断片情報が、博士の説明にぴたぴたと収まるのを読むのは快感。一世一代の密室トリックよりもこの錯綜したプロットのほうに驚嘆するべき(ここまで複雑なのはそうだな、ノックス「サイロの死体」くらいか)。それを楽しむにはポケミスの翻訳はうまくないので、改訳することを望む(と思っていたら、新訳が出ていました)。
高名な密室講義は次のエントリーで。
(続く)
ジョン・ディクスン・カー「夜歩く」→ https://amzn.to/4braSPq https://amzn.to/3WAHDWh
ジョン・ディクスン・カー「髑髏城」→ https://amzn.to/3Uzj2Pc https://amzn.to/3WvXaa1
ジョン・ディクスン・カー「絞首台の謎」→ https://amzn.to/3Wv3CxX
ジョン・ディクスン・カー「蝋人形館の殺人」→ https://amzn.to/3JRiXRY
ジョン・ディクスン・カー「毒のたわむれ」→ https://amzn.to/3USvVoE
ジョン・ディクスン・カー「魔女の隠れ家」→ https://amzn.to/3UTxKlm
ジョン・ディクスン・カー「帽子収集狂事件」→ https://amzn.to/4b8UeEx https://amzn.to/4bxpbCk https://amzn.to/4dCerUT
ジョン・ディクスン・カー「剣の八」→ https://amzn.to/3ycSGLr https://amzn.to/4bd6wvC
ジョン・ディクスン・カー「死時計」→ https://amzn.to/4b8TQpO
ジョン・ディクスン・カー「盲目の理髪師」→ https://amzn.to/3UDqMiW https://amzn.to/3wEPjw2
カーター・ディクスン「白い僧院の殺人」→ https://amzn.to/3ydX4K2 https://amzn.to/4bAvwwV
カーター・ディクスン「プレーグコートの殺人」→ https://amzn.to/3JUW7sz https://amzn.to/3JRjof4
カーター・ディクスン「赤後家の殺人」→ https://amzn.to/3Wzf9w2
ジョン・ディクスン・カー「三つの棺」→ https://amzn.to/3USgMng
カーター・ディクスン「パンチとジュディ」→ https://amzn.to/3WAdjuZ https://amzn.to/3ygtpQn
ジョン・ディクスン・カー「アラビアンナイトの殺人」→ https://amzn.to/3JUWh39 https://amzn.to/3WvY1Yh https://amzn.to/3JS7bXo
ジョン・ディクスン・カー「四つの凶器」→ https://amzn.to/3QDVNlY https://amzn.to/3ydTTls
ジョン・ディクスン・カー「火刑法廷」→ https://amzn.to/3UUOVlx https://amzn.to/3UQKqJN
ジョン・ディクスン・カー「曲った蝶番」→ https://amzn.to/4dBKq7G https://amzn.to/4dA0JSv https://amzn.to/3UQK6L5
カーター・ディクスン「ユダの窓」→ https://amzn.to/4dAq5Qk
ジョン・ディクスン・カー「死者はよみがえる」→ https://amzn.to/4bvLjNh
ジョン・ディクスン・カー「テニスコートの謎」→ https://amzn.to/3ybaINY
カーター・ディクスン「読者よ欺かれるなかれ」→
カーター・ディクスン「五つの箱の死」→ https://amzn.to/3wxhcX1 https://amzn.to/3WATnrV
ジョン・ディクスン・カー「震えない男」→ https://amzn.to/3ws17lq https://amzn.to/44CtkCH
ジョン・ディクスン・カー「カー短編集 1」→ https://amzn.to/3JWFJIg
ジョン・ディクスン・カー「猫と鼠の殺人」→ https://amzn.to/3WBnyiG
ジョン・ディクスン・カー「連続殺人事件」→ https://amzn.to/3QGovlX https://amzn.to/44y9AAb
ジョン・ディクスン・カー「皇帝のかぎ煙草入れ」→ https://amzn.to/4bvLiJd https://amzn.to/3wl51fY https://amzn.to/3WBcmmm
カーター・ディクスン「貴婦人として死す」→ https://amzn.to/4dMRGhp https://amzn.to/3QCLWwu https://amzn.to/3QDE0LC
カーター・ディクスン「爬虫類館の殺人」→ https://amzn.to/3Wv49Qt https://amzn.to/4bxblzW
カーター・ディクスン「青ひげの花嫁」→ https://amzn.to/4bvWgOZ
ジョン・ディクスン・カー「囁く影」→ https://amzn.to/3UTuPsZ
ジョン・ディクスン・カー「カー短編集 2」→ https://amzn.to/4bAd5IF
ジョン・ディクスン・カー「眠れるスフィンクス」→ https://amzn.to/4bdcbSq
ジョン・ディクスン・カー「疑惑の影」→ https://amzn.to/4bb7o3V
カーター・ディクスン「墓場貸します」→ https://amzn.to/3JVNwpB
ジョン・ディクスン・カー「ニューゲイトの花嫁」→ https://amzn.to/4adJtzt
カーター・ディクスン「赤い鎧戸の影で」→ https://amzn.to/3QDS1sw
ジョン・ディクスン・カー「九つの答」→ https://amzn.to/3yf9j9d
カーター・ディクスン「騎士の盃」→ https://amzn.to/3wxhgGf
ジョン・ディクスン・カー「カー短編集 3」→ https://amzn.to/4bv5n2u
ジョン・ディクスン・カー「喉切り隊長」→ https://amzn.to/3ygt3t1
ジョン・ディクスン・カー「バトラー弁護に立つ」→ https://amzn.to/4btt3UO
ジョン・ディクスン・カー「火よ! 燃えろ」→ https://amzn.to/3yf7ZmN
ジョン・ディクスン・カー「死者のノック」→ https://amzn.to/4afT0WM
ジョン・ディクスン・カー「ハイチムニー荘の醜聞」→ https://amzn.to/3URgFZo
ジョン・ディクスン・カー「ビロードの悪魔」→ https://amzn.to/4b1Xwtj
ジョン・ディクスン・カー「ロンドン橋が落ちる」→ https://amzn.to/4dA3B1D
ジョン・ディクスン・カー「死の館の謎」→ https://amzn.to/44Aj3a0