odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

朝日ジャーナル編集部「三里塚」(三一書房)

 成田空港に行って印象深いのは、開港2年目に帰国する親戚の迎えにいったら、最寄の駅から空港に行くにはバスしか使えないとき、機動隊の検問が数回あったこと。最後のゲートではバスからいったんおり、高さ数mの鉄柵や鉄条網などで囲まれた建物にはいり、一対一で入港の目的を細かく聞かれる。迎える人の便名と氏名を答えられなかったので、バスが発車してもゲートにのこり、担当者が数か所に問い合わせをして、ようやく照会できたのか、次のバスに乗り込むことができた。自分が若い学生だったので、別の目的を持っていないかと思われたのだろう。ともあれ、21世紀にはどこにも残っていない警備を経験した。なるほど、その2年前の開港直前に管理棟が新左翼セクトに占拠され、設備が破壊され、開港が半年遅れるという事態が起きていて、関係者は神経質になっていたのだった(このような警備は開港からほぼ20年続いた)。

 戦後、関東の国際空港は羽田一か所であったが、東京オリンピックのころには発着便が能力限界に近づいていた。また旅客機の大型化が進み、長距離の滑走路も必要になっていた。羽田を拡張するか、海上空港を増やすか、陸上空港を増やすかがオプションであるが、最後のを選択するのが1965年ころに決まる。予定地は二転三転し、1967年に成田市三里塚に唐突に決まる。予定地では即座に反対運動が組織される。政府や事業団は切り崩しを行い、野党ほかは反対運動の支援を開始する。5年ほどで開港するはずが、計画の半分程度の規模で開業したのは十数年後。滑走路を増やすなど計画が実現するのは四半世紀後。
 成田空港の反対運動が起きてから、朝日ジャーナルは繰り返しレポートしていた。この本には1967年から1970年までのレポート20本弱を集める。用地買収が進まず、着工すらできない状態のことを描く。
・最も大きな問題は「公共性」をどこまで国民に求めることができるか。建設予定地になったのは、戦後の入植者によって開拓された土地。それまで放置されていたので農地にはまったく適していないのを10年かけてようやく自営できるまでに持ってきた。その間、政府や省庁の支援はないか、損になるような施策しかない。用意された代替地は開墾した土地にはまったく及ばない荒涼地。このような資産を減らされるような政策に国民は従わなければならないか。政府は「公共の福祉」のために、私的所有は制限を受けることもあるとしたが、それは受け入れられるルールであるのか。
・「公共の福祉」と「私的所有の優先」と立場を異にする人々が対立するとき、どのように解決するか。政府の選んだのは「強制代執行」で、政府の命令や指令を暴力を使って貫徹するというものだった。この方針は三里塚、成田空港に限らない。安保であろうと、公害問題であろうと、大学問題であろうと、政府の決めた方針は実行されなければならず、反対者を全力で叩き潰そうとした。そのとき、政府や省庁は警察の「暴力装置」をつかい、60年安保では自衛隊出動を総理大臣が企図した(防衛庁長官の反対によって実現しなかった)。
・「公共の福祉」はしばしば、巨大な「私的所有」の専横につながっている。この空港建設にあたっても、用地の選定ごとにその地の不動産業者、土建会社その他が運動し、政治家もそのロビー活動を利用して、利益を得ようとした。そのような巨大な「私的所有」の専横が許容され、不利益は弱者に押し付けられた。空港建設問題では土地を奪われる農民であり、公害では地元住民であり、とくに零細な農林水産業者であった。
・政府や省庁は話し合いや説明をするといった。しかし、「事前協議なしで一方的に決めておいてから、話し合いをするといって、実際には話し合いをしていない」とか、出席するはずの大臣や高官は当日欠席し末端の官僚が10分程度しゃべって質問を一切受け付けずに閉会するとか、1回だけ開いて二度目が開かれないとか、そういう事例が続出した。これが住民の不信と不満を増加させた。
・政府や省庁は住民の懐柔と切り崩しに用いたのは多額の補助金。金を出すことで住民を満足させようとした。多くの場面でそれは功を奏した。しかし大金をもらった人々は生活が破壊(金の適正な使い道をしらず、すぐになくした)したし、地元では政府や省庁がいうようなメリットが生じなかった(雇用が限定され差別があるとか、ほかの産業が育たないとか、過疎が進むとか、モラルが退廃するとか)。
 このような政府と大企業の専横が、激しい反対運動を引き起こした。当初は、地元の反対運動組織に社会党共産党が支援していたが、それぞれ党派活動を優先するという理由(および機動隊との衝突を避ける)で排除され、新左翼党派と全共闘が有力な支援者となる。しばしば起きた「強制代執行」では、多数の負傷者をだし、ときに死者がでた。日常では、自殺者や病死者を出した。もっとも悲痛な例は、ある農家の強制代執行の際に老婆一人しかおらず、彼女は機動隊によって排除され重傷を負わされ、家を家財道具もろとも破壊したことだったか。
 計画の発動から40年が経過。空港は予定を大幅に遅れて開港した。その間に、用地の買収や建設費以外に、多大な警備費がかかり、しかも反対運動の側にも警備の側にも負傷者や死者がでる。当初予定していたアジアのハブ空港にはなれず、羽田の拡張と国際空港化によって評価が落ちてきた。公共プロジェクトとしては投資回収率からも当初ミッションの達成度からも実施に当たってのパフォーマンスからも、惨憺たる結果。失敗したという評価を下すことができないために、運用が続けられるプロジェクトになっているのではないかな。原子力発電所みたいな位置づけ。
 ただ、この惨憺たるプロジェクトはこの後、公共事業プロジェクトの反面教師となり、失敗学のケーススタディになる。これ以後の新たな開発プロジェクトでは、着工以前のアセスメント、住民への説明、市町村議会を通じた合意の形成が不十分ながらも行われるようになる。「強制代執行」という「暴力装置」は発動しないようになった。運用が開始されてからも住民への説明やヒアリングを繰り返し、不満や不安にこたえようとする。欧米と比べれば不十分だろうけど、少しは変わった。それは住民が反対の意思表示をしたから。そのような運動を行った先達に敬意を表する。