odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

吉田秀和「私の好きな曲」(新潮文庫)

 まず「LP300選(名曲300選)」を参考にクラシック音楽を聞き出した。5年もすると、300タイトルの多くを聴くことができた。いくつかは難攻不落のような難しさ(たとえばワーグナーの楽劇とかバッハの受難曲とか)もあったが、とりあえずクラシックの大海の概要はつかんだような気がした。そのあとに、この本が文庫ででた。それは自分の音楽の聴き方の次の導きになった。

 「LP300選(名曲300選)」が初級者のためのガイドブックであるとすると、「私の好きな曲」は中級者になるためのケーススタディ書とでもいえるのかな。ここには「LP300選(名曲300選)」に取り上げた曲もあればそうでない曲もあるけど、ここでは曲をよく聴いていろいろなことを考えてみようという。そうすると、曲を聴いておもしろいと興奮するとか癒されるとか、そういう感情が喚起されるところでおしまいにするのではなく、どこがおもしろいのか、どうして興奮したのかとか、なぜこの人はこういう曲を書いたのか、いろいろと「考える」ことになる。その考えるときの方法や仕組みをこの本が指南してくれたわけだ。そうすると、かつて漫然と聞いていた曲やとっつきにくかった曲に、自分では気の付かなかった新たな魅力を発見することができる。簡単なところでは、ベートーヴェン交響曲第9番。一時期は毎日3回も聴くような熱中ぶりだったが(周りの人は迷惑だったろうな)、そのときには冷めていた。でも、この本を読むと、

「『第九』を演奏するステージをみていて、私が、もし自分も参加できたら、やりたかったのは(中略)このティンパニを打つことだった。特に、スケルツォで。百人を越える大管弦楽を向うにまわしてこんなに破天荒な音が痛打できたら、さぞかし痛快なことだろう、と思った。(P383)」

とある。ああ、こういう聞き方もありなのだ、かつて同じ曲でティンパニ奏者のまねをしながら聞いていたが、それは自然なことなのだと納得し、安心した(傍から見ると変な奴にほかならないなあ)。
 この本に開示されたクラシック音楽の中級者の聞き方をいくつか類型化できると思う。取り上げられた作品をまとめると
1.晩年様式 ・・・ ベートーヴェン弦楽四重奏第14番、ピアノソナタ第32番、フォレ「ピアノ五重奏曲第2番」、ブルックナー交響曲第9番
2.「最高」の音楽 ・・・ バッハ「ミサ曲ロ短調」、モーツァルトクラリネット協奏曲」、ワーグナージークフリート牧歌」、ドビュッシー前奏曲集」、ショパンマズルカ」、ヴェーベルン弦楽四重奏のための五つの楽章作品五」
3.詩と自然 ・・・ シューマン「はじめての緑」、ドヴォルジャーク交響曲第八番」、ハイドン弦楽四重奏曲
4.オペラ(1980年以前はオペラを見ること/聞くことは大変だった) ・・・ ヤナーチェク利口な女狐の物語」、R・シュトラウスばらの騎士
5.「周辺」の音楽 ・・・ バルトーク夜の音楽」、ヤナーチェク利口な女狐の物語
6.秘曲(当時は価値の低いと思われる音楽に光を当てた) ・・・ シューベルトハ長調交響曲」、スカルラッティソナタ」群、モーツァルト「ピアノ協奏曲変ホ長調ジュノーム」
7.舞台の音楽 ・・・ ブラームス「ヴァイオリン協奏曲」、ベートーヴェン「第九交響曲
 ひとつの曲で着眼点がひとつであるわけではなく、複数の視点を取り上げたものがたくさんある。とりあえずの便宜的な分類。こういう視点でもって、曲を見る著者の手際というか聞き方の技巧には感心するばかり。ミスタッチや演奏時間や音量・音色、メロディの歌わせ方ばかりに注目しているのは狭い聞き方なのだなあと思った。これを読んで自分が聞き巧者になったかというと自信はないが、少なくとも音楽を聴き方の幅はできて、つまらないと思った演奏でも排除するのではなく、考える癖がついたとは思う。
 さて、30年くらいを経ての再読だが、ふたつの不満点、というかいいがかり。ひとつは後半になるにつれて、楽曲アナリーゼが多用されること。その種の素養がないので、アナリーゼの記述は読み通すのはすごくつらい。時にページを飛ばしました。もうひとつは、バッハからヴェーベルンまでの「古典音楽」にかぎっていること。雑誌連載が1974-76年で、単行本化は1977年(文庫化は1985年)なのでしかたがないが、今の自分の趣味だとルネサンスバロックの音楽がもっと入ってほしい。ラッススとモンテヴェルディ、中世世俗音楽、ラモーとテレマンを抜きに俺の「私の好きな曲」はありえない。あと、名人芸や感覚の音楽も素通り(というか著者が排除)しているのも。まあ、こういう言いがかりをつけてしまうのが傲慢な読者の特権なのだ。
 ともあれ、作品だけでなく、作曲者の評価、音楽を聴くときに注意することなど、著者の思考が惜しげもなく詰め込まれている。それが達意の文章で書かれていて、それぞれは短い枚数ではあるが、情報と思考の圧縮は並大抵の音楽啓蒙書を超えている。それこそ注釈をいれると、この本の3倍くらいになるのではないかなあ。著者の代表作というにふさわしい傑作評論集。趣味の合わないところがだんだん多くなってきたが、これはクラシックファンの必読書。