odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

吉田秀和「世界のピアニスト」(新潮文庫)

 初出は1976年で文庫化は1983年。出たと同時に読んでずいぶん感心した。でも、そのころはピアノの音楽が好きではなかったので(わからなかったので)、勉強用にはしなかったと思う。なにしろ、ここに登場する59人のピアニストの多くはすでになくなっていたし、中堅とされた1910−20年代うまれのピアニストですら、1980年代前半には活動していない人がいたのだから。この点では、ピアニストの活動期間は指揮者と比べるとずいぶん短い。いや80歳を超えてリサイタルを行う超人じみた人もいるが、それは珍しいのだ。それにピアノは自分で音を出すのだから、技術の衰えは素人でもわかることがあり、あんまり音が抜けたり、ミスタッチが多いと、痛々しさに心が苦しくなる。まあ、そんなこんなで初読の時ですら、この本に登場し当時現役のピアニストだったのは、ポリーニアルゲリッチブレンデルバレンボイムアシュケナージ、ピリス(当時はけがの療養中だったか)、ヘブラーくらいだったかな。現役のピアニストを鳥瞰するには、参考書にならなかったような。

(表紙は吉田翁から左回りに、ポリーニホロヴィッツミケランジェリアルゲリッチバックハウス、グールド?)
 そして30年後に再読したら、今度は別のことで引っかかって楽しめなかった。いくつか理由があって、最初の理由は著者がピアニストの美点と数えているところが、今の耳にはそうは聞こえないということ。典型的なのはバックハウス。著者はこのピアニストを優れた技巧の持ち主で、フォルテからピアノまでの多彩な音色をほめる。しかし、自分の貧しい耳にはテクニックは相当危ないし、音色は単調。得意とされるベートーヴェンピアノソナタも、一本調子の堅苦しい解釈。ブラームスの後期ピアノ独奏作品には詩情が欠けている。いくつの協奏曲を除くと、彼の録音を繰り返し聞くのは辛い。同じようなことが、グルダ、ケンプ、リヒテルなどの著者の推薦する他のピアニストにもいえる。そういう耳になっているので、著者がこれらの20世紀前半から半ばのピアニストにことばの妙を尽くして、美点と可能性を描いても、自分の側に来ることがなかった。
 まあ、この本を読みながら、20世紀半ばのモダン建築の数々を思い出した。その当時の最新モードとテクニックで作られ、「美」をそこに忍ばせていたはずのモダニズム。それから50年を経って見返すと、モードは古くさく、テクニックは不充分で、居心地が悪く、使い勝手の良くないものになっている。なぜその時代に人々が、それに熱狂したのか理解するのが困難。そんな感じのくすんだ建物。それと同じような気分を持ってしまった。
 たぶんピアノ(とクラシック音楽)の趣味が1980年代から別のところに移動したのだろう。バックハウスへの崇拝をやめ、ポリーニに熱狂するのをやめ、別の新しさを見出すようになったのだ。似たような趣味の転換は1930年代にもおきていて、パハマンやラフマニノフ、ホフマンらへの熱狂や崇拝をやめたのと同じような事態だと思う。
 自分の貧しい言葉ではうまくいえないけど(プロの評論家ではないから無責任にいうと)、著者がピアノ音楽の美点としてあげる「詩」と「歌」の意味するところが変わってしまった。そして、音楽から見出す「精神」にさほど重きを置かなくなってきた(というより、あまりにドイツ的、形而上的な「精神」という観念を聴衆は共有しなくなった)。そうなると、著者が多くのピアニストの欠点に数えると超絶技巧や演奏者の主観がむしろ長所としてあげられるようになってきた。もちろんそれは19世紀後半のヴィルトゥオーズの復古ではなく、20世紀前半の新即物主義なども取り込んだ新しい趣味。趣味としたのは、このような音楽理解や解釈は進化や発展とは無縁で、いずれまた別のところに移動するだろう、その移動には合理的な理由はないだろうと強調するため。この30年間に起きた趣味の変化も合理的な理由などないのだし。
 そういうふうにみるとき、この本は21世紀前半には全体として古くなった評論。でも2070年(主出から100年経過)を過ぎると古典になるかもしれない。