odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

吉田秀和「響きと鏡」(中公文庫) 1980年ころ「西洋に追いつき追い越せ」が達成されると、知的エリートは「日本の伝統」を再発見する。

 著者の仕事のなかでは、内容の充実していることで傑出している。著者が主に対象にする西洋古典音楽について、自分もそれなりの聴取体験と勉強を重ねてきたので、必ずしも著者の意見に賛同できなくなっているのだが、このエッセイのように音楽の他のことを書いたとき、彼の考えや思考法がよくわかる。

 もともとは1977年から2年間雑誌に連載したエッセイを1980年に単行本にまとめたあと、1990年に文庫になった。自分が読んだのは、文庫版。当時の自分はよほど著者に心酔していたのか、新聞などの広告で知り、店頭に並んだその日に買ったのではないかしら(でもどの本屋で買ったのか記憶はない)。
 さて、このエッセイで取り上げた話題をアトランダムに上げると
能・京劇、詩と絵、チャップリン、彫刻家ドガ、大田黒元雄、ヴィスコンティ(の映画3本)、禁煙車両、本屋、有名であること(パブリックとポピュラーの違い)、TVの歴史ドラマ、伝統をないがしろにすることについて、芸術家の多産・多作について、相撲(ことに北の海について)
という塩梅。西洋古典音楽はポリーニの演奏会についての一本だけ(当時30代後半の天才ピアニストもベートーヴェンの伝統にはてこずっていて、そのかわり20世紀の前衛音楽は立派という話)。
 他の著者の本にでてきたのだが、西洋(特にドイツ)には教養があってがっしりした思想を持っていると同時に、自然と芸術を愛好する人々がいるという。彼らが19世紀から20世紀前半の西洋の文化を下支えしていたわけで、そのような人々がいることが文化や芸術に重要というわけだ。こういう人を育てる、というか啓蒙で彼らと同じ水準の教養人を作りたいというのが、彼の本の端々からうかがわれる。特に若いときには西洋の芸術をどのように東洋のこの国の人が受容・理解できるかというのが大きな問題になった。そこがクリアにならないと西洋の19世紀的な教養はこの国には根付かない。
 しかし、そのような問題意識を持ってから四半世紀が立つと、著者から少し肩の力が抜ける。この国にも、和歌や短歌を読んだり詠んだり、能や歌舞伎の熱心な鑑賞者で歴代の役者を詳しく知っていたり、素人でありながら舞や歌舞伎を玄人に混じって上演できる力量のある人を発見することになる。そうすると、問題は変わってきて、外国とこの国の違いは何か、この国は伝統を重んずるといいながら、趣味のよい古いものを簡単に捨てたりする(日本家屋とか家並みとか自然環境とか)。その一方で、歴史に熱心な関心をもっている(歴史ドラマや小説の隆盛)のに、歴史の見方が全然変わっていない(判官贔屓とか勧善懲悪とか)。規律を規律の正しさで守る事は少なく、誰かの命令や大声には唯々諾々と従うところ(禁煙車両の運用)など、この国の外国と比較したおかしさを指摘するようになる。よくある悲憤慷慨型の絶叫や熱中とは無縁なだけに、彼の指摘は読者にずっしりとしみとおってくる。そういう思考の見本が十全に現れた好エッセイ。
 このような肩の力が抜けたというか、西洋に追いつけるかという問題から解放されたかにみえるのは、この国の経済的発展を背景にしている。1960年代に経済発展し、1970年代の不況をこの国はいち早く脱出し、1980年代には世界の市場を席巻している。世界の有名演奏家やオーケストラは頻繁に来日し、この国の演奏家も西洋のメジャーレーベルと契約するようになる。そのような「西洋に追いついた」感じが、著者などの「余裕」につながったのではないか。不況型なかなか脱却できず、西洋と切り離された閉塞感がある21世紀となると、余裕がなくなってしまう。それを埋めるのは、諸外国との比較を拒否した「この国はすばらしい」のナルシズム。この国のおかしさには目をつむろうとしていて、著者の指摘や嘆きは共感されにくくなっているのではないかな。
 何人かの人物評が出てくるがこれは著者の芸を楽しむ。最初に、著者の個人的な体験が語られる。ユーモラスなエピソードで対象の人の輪郭がざっくり描かれ、強い印象を残す。そのあと、年譜や作品などが資料に基づいて紹介される。そのうえで、個人的な体験やエピソードで描かれた輪郭や印象が資料に基づいて補強され、一般的な理解に到達し、対象の人の仕事と人柄が確固とした評価になって、確定する。この移り行きと人や作品の深い読みは見事。チャップリンと大田黒元雄について書かれた文章はとりわけ見事。
 あとはこの人の子供っぽいところとして、「北の海頒」がおもしろい。1970年代後半の名横綱、あまりに強くて人気の出なかった人(同じ時期に先代貴乃花や若三杉、三重ノ海などの人気力士がいたのが不幸)だが、著者はこの力士が大好き。たんにファンであるだけでなく、しっかりとした技術評があり、自分で蓄積したデータが紹介され、力士の人となりまでを描く。これほど優れた格闘技評論は読んだことがない。
 痴愚日記になると、北の海も勝てなくなって、理想の力士を夢見ていたのを幻滅しなければならなくなり葛藤するところがおもしろい。優勝のかかった一番になると、TVを見ていられなくなり、代わりに友人にみてもらい、自分は表にでて結果をまっているといううろたえぶりを示す。なんて、お茶目な60代!

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