odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

吉田秀和「LP300選」(新潮文庫)

 1962年初出。1980年ごろに新潮文庫に収録される際に、付録のレコードガイドを大幅に改訂した。1970年代の趣味(ピリオドアプローチがない、戦前の巨匠が存命など)がとてもよくわかるリストなので、若いクラシックオタクは参考にしてください。
 名称の背景にあるのは、1962年の初出と雑誌連載中にLPプレーヤーが普及し、LPが市場でわりと容易に入手できるようになったから。とはいえ、大卒の初任給が1万円あるかないかの時代に、一枚あたり3000円という高額な価格なので、気軽に購入することはできない。なので、よくレコードを聴いている人の推薦は購入を決意するのに重要な指標になっていた。

 この本の特色は、単純に名曲や推薦盤を並べるのではなく(その種の本は当時からたくさんでていた)、西洋音楽の歴史と芸術思想の歴史を踏まえながら、作曲家と作品を紹介しようとするところ。そのために記述の大半は歴史と個人の描写に割かれる。ときに、社会の問題や芸術家の資質みたいなことにも触れる。広範な分野をカバーして、音楽史をコンパクトにまとめた。もちろん参照した文献が膨大にあって、ときにその本の記述を使ってもいたのだろう。そうはいっても、編集の能力とわかりやすい文章にまとめる腕は見事。自分もクラシック音楽の大海に分け入るとき、この本をガイドにした。何度も読み返し、推薦する作品が収録されているLPをできるだけ集めるようにしていた。
 さて、300選のうち7割くらいを聞いたところで、自分の趣味がかたまり、知識も増えてきて、この本とは疎遠になる。ガイドにあるお勧め観光地のほとんどを訪問したので、ガイドにのっていないところを探訪したくなったわけだ。そうしておよそ四半世紀ぶりに読み直すと、上記のように優れたところと、疑問のでてくるところが生まれてくる。そんな自分の変化からいうと
・LPを300セットも持つというのは資金と収納と聴取時間の確保でほぼ手一杯になるのだが、21世紀ではその種の問題はデジタル化でほぼ解決。なので、300選では不足。その倍か1000選くらいでもおなか一杯にならないくらいのタフな聴取者が生まれている。
・バッハ以前の音楽の研究と録音が急増しているので、グレゴリオ聖歌からバッハまでの記述は新に書き起こしてもよいくらいになった。おおまかな歴史区分はたぶんそのままに作曲者と作品は見直しが必要になってくる。そういう視点になるとき、この本の記述の物足りなさは、教会音楽と声楽曲に集中した選曲なので、世俗音楽と宮廷音楽の選曲と記述が足りないこと。トゥルバドールは登場しても、カルミナ・ブラーナなどの中世世俗音楽は登場しないし、そこらの森や村で演奏された古民謡などもなし。宮廷音楽ではバロック・オペラや室内楽なども不足。また、たとえばヴィヴァルディやテレマンのような膨大な作品を作り、消費され、忘れられた作曲家の評価がひくいのだが、自分にはこのマンネリの音楽が非常に大きな魅力になっている。
・18世紀以降の音楽では彼が「ここでは選ばなくてもよいだろう」とスルーした作曲家に注目。自分の趣味でいうと、シンフォニーとソナタが重要な問題としてとりあげられながら、その最初期の成果が漏れているのが不満。ハイドンモーツァルトでもって18世紀のシンフォニーを代表するのは不当で、C.P.E.バッハクレメンティ、ボッケリーニらのおよそ個性のないシンフォニーやソナタを聴くことは重要。19世紀後半以降だと、世俗の音楽家で取り上げられるのがヨハン・シュトラウスのみというのも。自分にとっては彼よりもオッフェンバックやフンパーディング、クルト・ワイルの方が重要。
・あとは取り上げる国や地域の偏りもあって、フィンランドチェコスロヴァキア(当時)はあってもルーマニアポーランドなどは無く、スペインではファリャのみ(自分にはアルベニスグラナドスモンポウを抜かすことはできない)で、アメリカはガーシュインのみ、中南米はまったくなし(ヴィラ=ロボスなしというのはねえ)。まあ書かれた時代からするとそうなるわな。技巧的な作品の書き手はせいぜいパガニーニとリスト。アルカンやゴドフスキー、サラサーテなどの超絶技巧の作曲家は名前もない。
・著者がこの本を書くときの西洋音楽の見方は
1)音楽は「詩と真実」を表現して、その芸術に関与することで人間の真実とか生の意味とかが自己達成される
2)音楽の歴史は、理論の精緻化、和声の複雑化、技術の多様化などで進歩を説明可能
3)西洋音楽の中心はイタリア、フランス、ゲルマン。その周辺地域はここらの成果が遅れて波及。
あたり。彼がスルーした音楽をまとめるなら、共通するキーワードは「戯れ」「遊び」。なので、世俗音楽に、大量生産=大量消費の音楽に、ヴィルトゥオーゾの音楽が取り上げられない。それは1)のところの「詩と真実」には遊びは加わらないから、というような説明が可能かな。このような音楽の受容はなるほど大正の教養主義の時代のものであるかもしれない。それは1980年まではどうにか有効であったとしても、それだけでは満足できないところに、自分ら21世紀の聴取者はきてしまった。
 とはいえ、この本の主題をひとりで書き直すことのできる人がいるのか、というと心もとなく、自己修練の場としての教養を否定しても、その代わりになる立場を打ち出せないというのは彼の後の人々の勉強や思考の不足をあらわにするのではないかな。
 いま入手可能なちくま文庫版では「LP」のかわりに「名曲」となっている。