odd_hatchの読書ノート

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武田泰淳「富士」(中公文庫)-1

 富士山麓に桃園病院という精神病院がある(小説内の呼称をそのまま使います)。広大な敷地に多くの患者が集められている。太平洋戦争勃発の翌日から、収容キャパを超える患者が全国から送られてきた。「戦時体制」とかいう名目で、それまで家族介護であった患者を収容する施策が政府によって取られるようになったから。そのために、平時の収容人数をはるかに超える900人が集められた。外からは周辺の農家や憲兵などの注視を浴び、中では患者同士のいさかいがあり、食料割当が減少され、医薬品など資材も不足している。そのような病院の実習生として勤務することになった「私(大島)」が治療者と患者を観察しながら、戦争末期の病院の様子を詳しく記述する。

 記録? とはいえ日付があいまいで、場所も明らかでないこの文章は客観的な資料には程遠い。「私(大島)」は安全主義を標榜し、病院という隔離された場所で囚われの身となっていることを常に意識している状態では治療者と患者の違いがあいまいになっていく。もちろん行動において「異常」であればそれは認識可能でありそうだが、日常の立ち居振る舞いが周囲と変わりないのであれば彼/彼女を「異常」というのは難しい。それこそ衣服の違いと他人からの呼ばれ方くらいでしか区別できないのであろう。
 この作家の常として、膨大な登場人物が現れる。そのうえ、この作家はずぼらなのかそれとも意図的なのか、人の名前や肩書、人間関係などをずっとあとになってから不意に、そっと追記するのである。メモを取っておかないと、混乱してしまう。とりあえず最初から最後までほぼ登場する人物を拾っておこう。
<治療者>
「私(大島)」:K大医学部の実習生で、語り手。右目視力なし(とされるがのちに記載なし)。「宮様」の一条とは同じ大学の同級生。
甘野院長: 病院の責任者。40代。過去に息子(4歳)が溺死。半年前に住宅が全焼。妻(美人)と娘(5歳)と無口無表情な村の子守娘・中里きんの4人暮らし。
看護婦長: 名無し。博愛主義者。キリスト教徒らしい。
他に看護人、守衛など多数が在籍しているが、ほとんど描写されない。
<患者>
一条実見: 美青年。虚言症。「宮様」と呼称し、貴族のようにふるまう。
大木戸孝次:がっしりした大男の元軍人。てんかん症。常に空腹。病気を治して軍に奉公することを熱望。
岡村誠: 16歳の少年。黙狂(この語は埴谷雄高が「死霊」の矢場徹吾につけた造語)。ノートに哲学風の文章を書いている。風呂にはいらないので臭い。
庭京子: 「患者にさせられている」。のちに「神に愛されている」。
間宮: 梅毒性痴呆症。元は鳩のブリーダー。見えない鳩を飼っている。
他に多数の患者がいるが、ほとんど描写されない。
<出入りする者>
火田軍曹: 憲兵隊。病院内に仮病を装った犯罪者がいるのではないかと内偵。とくに一条に注目。
中里里江: 農家の娘。一条に惚れて、彼のあとをつけまわす。
中里のおやじ: 里江の父。娘を一条と結婚させて、「宮様」と関係を持とうと画策中。
大木戸夫人: 大木戸孝次の妻。美人。
病院は村との交流がほとんどないので、出入りするのはこの数名。

2016/05/09 武田泰淳「富士」(中公文庫)-2 1971年
2016/05/06 武田泰淳「富士」(中公文庫)-3 1971年 に続く。