odd_hatchの読書ノート

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ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-2

2015/12/01 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-1


 日常風景で細部が語られる。物資は極端に少なく、かつてあったものは入手できないようになり、教育水準は年々低下する。人々は労働で疲労していて、少ない余暇も党活動やボランティアや集会でつぶされ無償で働かねばならない。住宅は長年使用されてガタついているが修繕されず、人々が乱暴に使うものだからますます痛みが進む。ときにロケット弾がどこからか打ち込まれ、数十名の死者がでる。狭い自宅にはテレスクリーンの監視があり(突然名指しで怒られる)、毎日の集会では「二分間憎悪」の時間があって、国家の敵、人民の敵に悪罵を投げつけなければならない(ここはレイシストの街宣やデモの光景に酷似)。本、雑誌は供給されず、読むことができないようになっている。
 ここらはバージェスの指摘通り、1947年当時のロンドンの状況なのだろう。ドイツとの戦争があり、1940年の空中戦でロンドンは被害を受けたが、戦争継続下に置いては改修などできず、アメリカから輸入物資に頼らなければならない。それが10年近く継続し、ドイツやソ連も同じであるとき、これが未来の全体主義国家の生活に他ならないと作者は考えたのだろう。それから70年もたつと、物資の供給や監視のテクノロジーは古いと思わざるを得なくなる。

 そうではなくて、作者の創意は次の二点にある。そのアイデアは傑出していて、しかもアクチュアリティがある。
・ニュースピーク: 国家による言語革命。その要点は、語彙を減らすことと語の意味を限定すること。語彙を減らうのは対義語や類義語をなくし、周知のわずかな言葉だけを使用すること。比較や強調にはいくつかの接頭辞を重ねることで代用する。good→plusgood(比較級)→dubbleplusgood(最上級)みたいな使い方。これに慄然としたのは、この40年くらいかけて日本語も同じような語彙の減少と接頭辞の重ねと意味の限定されたわずかな単語でしゃべるようになっていること。「チョベリバ」「すっげーヤバい」などなど。ニュースピークは思考の範囲を狭め、抽象的な思考ができないようにするためのもの。そのことによって、国家や権力への不満や批判を論理的に説明し、政府批判や打倒の運動が起こることをなくすことができる。上からの言語「改革」が政治的な意味をもっているわけだ。これは真理省と呼ばれる政府組織の仕事と連動していて、「党」の施策が変わるごとに、過去の文書を全部書き換える作業をしている。それによって、過去は現在にあわせて自由に改変することができ、過去と現在を比較して社会や党への批判や不満を封じ込めることになる。歴史の改変や修正は、このような全体主義化、一部の党権力による抑圧を欲している。
二重思考: 「二つの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れる能力(略)自分が蝦蟇化していることもわかっている。しかし二重思考の行使によって、かれはまた現実は侵されていないと自らを納得させるのである(P328)」。たとえばこの小説ではオセアニアのスローガンに集約される。「戦争は平和なり/自由は隷従なり/無知は力なり」。このような矛盾を矛盾と思わない思考法。おそろしいのは、自分の内部で二重思考をするだけでなく、他人の言説の矛盾も指摘できず、そのまま受け入れるというところ。この国でも実例が増えてきた。「(寄付金を)もらったことはないが、返金した」「集団的自衛権による積極的平和主義」など。この小説では、二重思考は訓練や教育によって押しつけられるものであるが(西洋ではルネサンス以降に懐疑や理性の精神が出て矛盾するものをそのままにしない思考がおのずと生まれた。それを覆すためには、強制、矯正が必要になる)、この国の21世紀ではおのずと二重思考ができるものが生じている。1960年代の筒井康隆「やぶれかぶれのオロ氏」では、二重思考の発言がでると、ロボットは理解不能になって爆発したのだがね。このところは、政治家ほかの相矛盾する発言を表記の通りにうのみにして、批判しないようになっている(身近な観察とメディアの報道を見聞しての根拠の薄い評価ですけど)。
 これとあわせて国家主導で行われるのが、歴史改竄。すなわち戦争状態は継続しているが、<敵>は時に代わる。そうすると、過去の国家の発表、ステートメント、議事録などの記載をすべて修正し、過去から<敵>はおなじであったとされる。それがスミスの所属する真理省記憶局の仕事。国民のてもとにはいっさいの本や雑誌がないから、歴史の改竄を検証することができない。本を所有したり、自分で文章を書くことは犯罪とされる。なので、国家や党による歴史改竄を指摘したり批判することができない。「歴史に学べ」どころか、この国には歴史はない。党が国家をのっとったところで歴史は終焉を迎えている。
 そのうえ過去の文献をニュースピークに翻訳し、原典は処分している。ニュースピークに翻訳されることでもともとの意味を失う。国民は自分で考えること、批判的にものごとを観察することができなくなる。そのための教育と実践のツールがなくなっているから。ここには思想信条の自由、表現の自由、両親の自由はない。国家が歴史と言語を統制することで、自由の概念と意味を国民から剥奪しているから。
 恐ろしいのは、この国家統制が進むほどに、人々が「自発的」にニュースピークと二重思考を持っていくこと。「1984年」のプロール(労働者階級の意味)は国家のお仕着せの貧しい「文化」を消費することしかできない。その風景がいかに21世紀のこの国に似ていることか、この国だけではなくその他の地域にもある。

  


2015/12/03 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-3
2015/12/04 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-4