odd_hatchの読書ノート

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ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-3 異端者スミスは文化・政治・存在革命を経験して真の革命家になる。

2015/12/01 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-1
2015/12/02 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-2



 さて、物語は39歳のうだつのあがらない(うだつをあげることがこの社会で可能かどうかはおいておくとして)ウィンストン・スミスのおよそ半年間の経験。ここにあるのは「革命家」になることの過程。すなわち、文化革命、社会革命、存在革命という3つのステップを経て「革命家」に自己改造するまでを事細かに描いている。
 第1部はスミスの文化革命。彼は真理省の記憶局で働き、党の主張が変わるごとに文書や写真などの過去を語るエビデンスを書き換える作業をしている。党の出す出版物以外に本や雑誌などがなく、図書館のアクセスが制限されているとき、過去の「正しい」姿を示す痕跡はない。しかし彼は数年間の粛清裁判で、ビッグ・ブラザーとともに称賛を浴びた党幹部がいたこと、彼らの革命裁判と、刑確定後の落ちぶれた姿をカフェで見たことを覚えている。当然、その記憶の方がねつ造であるとされるのだが、スミスは普遍的・不変的真理が存在することを確信している。その思想を行動にするために、日記を書くことにする。言語、とりわけ書かれたことばが国家や党に管理・統制されているとき、個人的な感情や思考を書くことは、現状の打開と変化を求める政治的な行動になる。日記に文章を書いたとき、彼は「革命家」への第一歩を踏み出す。
 第2部はスミスの社会革命。淫蕩で性的放埓なジュリアという娘(26歳)がスミスに接触する。彼女はスミスをさまざまな隠れ家に引き込み、性交する。そしてスミスが骨董を買ったテレスクリーンのない下宿に何度も引きこもる。彼らのすることは性交のみ。知的な会話も家庭的な安楽もなく、二人は裸になり、行為を求める。この国家では性行為も管理、制限下においている。たとえば青年たちに禁欲の同盟をつくらせ、アジテーションやデモンストレーションをさせている(ジュリアもその活動をしている)。人口の調節のようなプライベートとされることも、国家が口をだし産児制限あるいは出産率上昇をコントロールしようとする。そのような監視と制限にある状況で、自由な性交を行うことは国家と政策に対するカウンターアクションであり、高度な政治性をもっている(1960年代にアーチストやヒッピーが裸になったりフリーセックスを喧伝したりしたのは、そのような政治的主張をもっていた)。スミスはジュリアとの淫行によって社会革命を実行する。
 第3部はスミスの存在革命。文化革命と社会革命を推進してきたスミスが党の注目を浴びることになり、党幹部じきじきの使名で存在の革命を体験する。ここで党の規約や綱領を徹底的に内面化させられる。それはスミスは自分の価値がゼロであり、個人よりも党のほうが優先されることを暴力でもって叩き込まれるのだ。スミスは自尊心と普遍的・不変的な真理への希求でもって抵抗する。それを破壊しつくすのはナチスドイツやソ連共産党ゲーペーウーやこの国の憲兵特高などが実践してきた拷問テクニック。それでも抵抗するスミスの意図を挫かせたのは、彼の内奥にある恐怖を呼び起こすこと。それによって、スミスの個、自我、主体、自己観念といった内面が完全に破壊され、党の規約や綱領をそのままに受け入れる存在になり替わる。象徴するのが「ビッグ・ブラザーを愛していた」という述懐。
 このようにふつう読まれるしかた(たぶん個人の尊厳の破壊、束縛、洗脳などの恐怖として読むこと)と異なる風に読んでみた。ふつうの読み方を中心にすえると、なぜスミスを主人公にしたのかわからなくなるのではないかと思って。真理省記憶局の同僚もまたスミスと同じ時期に逮捕されるのであるが、些細なミスで逮捕された彼らの前には「オブライエン」のような党幹部は現れない。小説前半でほのめかされているように、政治や革命に自覚的でない破壊分子はたんに消えるだけだから。スミスだってそのようになりうる存在ではあるが、しかしスミスには党の象徴であるようなオブライエンが来る。テレスクリーンの監視によって隠すべき秘密や陰謀計画を持たないにもかかわらず、執拗な熱心さでスミスをオルグし、矯正しようとして教育する。スミスが文化革命と社会革命を自発的に行う革命家になった/あろうとしているから、党はスミスの存在に注目する。その結果、スミスは二重思考とニュースピークを実践する党の忠実な革命家になったのだった。あいにく打倒するべき旧主勢力が一掃されているオセアニアにおいては、革命家の生きる場所はない。「もう死んでいる」しかない。


2015/12/04 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-4


 ここのところはアントニー・バージェス「1985年」のエッセイ部分による批判も紹介しておきたい。すなわち、ウィンストン・スミスは特権階級のひとりではあるが、ニュースピークやダブルシンクの「教育」を受けていたので、全体として無知であり、彼の武器は「判断する自由」だけ。それ以外の自由を持っていないし、ビッグブラザーの集産主義とか全体主義を批判する方法や根拠をもたない。なので、スミスの抗議はオブライエンらには無効、無力なのだ、という。しかし、オブライエンら党によるスミスへの抑圧ないし矯正は極めて不合理であって、「101号室」という恐怖の部屋では、囚人ごとに彼の最も恐怖するものを用意しなければならない。そこまでの調査や手配をかけることを党はしないでしょう。スミスはたまたまネズミで手配は簡単だったけど、そんなに簡単に入手できるものばかりではない。
(その点、1930-40年代のこの国の特高と呼ばれる秘密警察は「親」「家」を使った。これは囚人の空想のうちできわめて強い恐怖をもたらすし、観念のうちにしか存在しないから拷問用具は不要、言葉だけで囚人の心をねじ伏せるというとても有効な道具だった。)
 それにオブライエンらはスミスにネズミをしかけるわけにはいかない。そのような肉体的暴力はスミスを屈服するどころか、殉教に向かわせることになる。それは党の「革命家」にでっちあげることに失敗することなのだ。スミスは、オブライエンの拷問で自分の内部が空虚であることを示されるが、それを党への忠誠とビッグブラザーへの愛で埋めることは自らの意思で行わなければならない。そのような自発性をスミスにうえつけなければならないのだ。党とオブライエンはそれに成功するが、この一連の手順は心理学の「条件付け」に相当する。ネズミはオペラントつけのための道具であって、決してスミスを傷つけてはならない。具体的には、バージェス「時計仕掛けのオレンジ」でアレックスがうけたルドヴィコ療法。暴力や性の映像を過剰に押し付けられたアレックスが暴力や性への欲望をもつと嘔吐や動悸でなにもできなくなるように。身体的な反応と心理的な条件付けでビッグブラザーへの抵抗が愛に克服されるわけだ。そのときにはスミスには道徳的判断の自由も奪われている。すなわち、スミスは社会的人間として「死んでいる」ことになる。