odd_hatchの読書ノート

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ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-4 全体主義運動は、国家の内と外にいる敵に憎悪と敵意をかきたて、貧困における平等と格差を固定する。

2015/12/01 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-1
2015/12/02 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-2
2015/12/03 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-3



 オーウェルが「1984年」でみた全体主義社会は次のような構成を持っている。
1.国家と党の一体化したシステムによる国民の抑圧と管理
2.言語や思考に国家や党が介入する洗脳システム
3.労働、生活、活動のすべてを国家と党が統轄
4.貧困における平等と格差の固定
5.国家の内と外に<敵>を作り出し、憎悪と敵意をかきたてる
 ここにないのは、ピンチョンの指摘の通り、レイシズムと排外主義。せいぜい「人民の敵」「国家の敵」であるゴールドシュタインがユダヤ人を思わせる鼻をもっているくらい。レイシズムと排外主義はそのまま全体主義権威主義に直結し、人々への抑圧や弾圧、虐殺になり、これまでのそのような社会や国家が有効に利用してきたから小説に書かれていなくとも注目しておかないと。
 このように羅列できる全体主義国家の構成は社会学などの学問的な調査に基づくものではなく、当時までに見聞できた全体主義国家(あいにくこの国は入っていないと思うが)の知識から抽象化されてできたものだ。そうするとおのずと時代の制約があり、その違いに注目すると瑕疵が目につくことになる。そのために、1980年代に読めばこんなハードな国民監視の仕組みはないよ、もっとソフトで不可視の監視になっているよとか、21世紀であればこんな「党」が権威主義的な党は時代遅れでインターネット環境で国家を越えた情報のやり取りがあるからリテラシーを国家が管理できはしないねとか。そのたもろもろ。なるほど、おれもこのような考えを持ちかけた。
 しかし考え直す。全体主義権威主義は国家だけにあるわけではなく、グループから超国家まで、自分らの生活・労働・活動のいずれにも生じる。全体主義権威主義の集団は構成員のみならずステークホルダーへの忠誠と抑圧を同時に求め、社会を生きにくいものにしていく。いったんそのような集団が構成されると、集団を解体するとか変革するとかには莫大なリソースが必要になる。第2次大戦後のドイツやこの国の再建、ソ連崩壊、韓国の軍事独裁から民主制への移行、ユーゴの内戦と再建、中南米諸国の軍事独裁制からの脱却などの多数の歴史を想起すること。
 そのうえ、この国の特長は全体主義権威主義の中心がいないところ。「ビッグ・ブラザーがいつも見ている」というスローガンはこの国では通用しない。そういう主体とか個人とかは権力や組織の中心にいない(ごく少数の人間が小さな組織や集団の「ビッグ・ブラザー」になることもあるが、たいてい老年になると引きづりおろされている)。代わりにあるのは、監視の主体が抜けたたんなる「いつも見ている」だけ。管理や監視の主体が内面化されて、打倒する相手が見えなくなってしまう。そのあたりで、この国の読み手はこの小説からリアリティやアクチュアリティを得るのを難しくしている。とはいえ、この小説の警告や分析は利用しなければならない。なるほど陰鬱であり、単純な物語であるが、読みとることはおおい。再読必須の小説。