odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-1

 タイトルの1984年が現実の年になった時、書店には翻訳と原書が山積みになり、雑誌で特集が組まれたりした。当時は、なるほどこの小説の内容は圧倒的ではあるが、その社会描写は現在(当時)のリアルには即していない、というような評価だったように思う。実際、その数年前に自分で読んだときも、朽ちた都市に貧しい人々が暮し、秘密警察が跳梁跋扈するのは、現実的ではない、むしろハイテクノロジーが見えない監視をするのではないか、などと考えたものだ。なので、小説は重要ではあるが古いものであると判断した。それから数年後に共産主義体制で、秘密警察と収容所のある全体主義国家があいついで消滅したのもそれを裏づけするとも思えた。

 とはいえ、21世紀に読むと別のことを考える。大きなことは国家と戦争が変わったこと。20世紀の戦争が国家と総力戦と収容所であったのが、21世紀の戦争はグループとテロルと大量虐殺になる。国家という枠組みが薄れてきて、それを統括する「党」の権力志向が無効になっているように見える。一方で、国家より少数の構成員からなるグループでは、権力と内部統制の仕組みは強力になっている。このような枠組みでみたときに、この小説のどこに可能性があるのかを考えながら読むことになる。ただ、自分の中ではうまく掬い上げることができていないので、中途半端な感想になるだろう。
 米ソが対立していときに、この小説を詳細に読み取ったものに、笠井潔「テロルの現象学」(ちくま学芸文庫)がある。「党派観念」でこの小説の分析をしているので、参考に。また、ハヤカワ文庫の新訳版ではトマス・ピンチョンの解説がある。とても優れた内容なので、参照してほしい(ピンチョンがいつ書いたのか書誌情報がないのが残念)。
 まず、この小説の背景をみるところから。
 1940-50年代に限定核戦争が起きて、30年。地球は3つの超大国家で分割されていた。英米連合のオセアニア、ヨーロッパからアジアにかけてのユーラシア、東アジアから南アジアにかけてのイースタニア。それぞれ社会体制は異なるとされている(オセアニアは集産主義、ユーラシアは共産主義イースタニアは不明)が、内実は「党」による独裁。この3国が相手を変えての戦争をずっと継続している。戦争はイデオロギーや経済などの思惑でほかの国家を打倒ないし征服することではない。たんに戦争状態を継続していることが目的。国内で消費しきれない生産財を破壊し、党の権力を維持強化するためには「戦時」にしてくことが不可欠なのだ。そのためか、この3つの世界は敵対していながらも、社会体制はさほど変わらないとされる。というのも、これらの超大国家は情報制限をしていて、他国のニュースは流さないし、教育もいいかげん。人工の半分はプロール(プロレタリアートからの造語なのだろう)という貧困階級が85%。彼らが生産を担うが、低賃金であり、劣悪な教育に置かれているので、粗野で無知なままとされる(マルクスレーニンのような革命の主体にはなれないとされる)。残りが事務やサービス業になるのだろうな。人口のわずか1.5%だけが「党」に入ることができ、彼らが権力をもつ。党首は「ビッグ・ブラザー」と呼ばれ、彼個人への忠誠が求められる。なにしろスローガンは「ビッグ・ブラザーはいつも見ている」であり、各戸にはテレスクリーンなるテレビとwebカメラの一緒になったような装置の設置が義務つけられ、盗聴と盗撮が行われ、思考警察に注目されると、深夜に拉致され行方不明になる。行方不明者の存在は文字通りなかったことにされる。(ここらの描写は迫真的で恐怖をもたらすのであるが、実のところはナチスドイツとスターリン下のソ連共産党が行ったことに他ならない。この国の監視体制は上からではなくて、左右の隣人による相互監視だったのでちょっと違う)。この小説が書かれたのは、その記憶が生々しいとき。このオセアニアでは、生産性の向上や国民生活の充実は国家目的になっていないので、貧困の下の平等、無知のもとの放埓でかまわないとされる。そのために、戦争状態が継続されている。20世紀の総力戦においては、国家による経済の統制(資源の配布、リソースの割り当て、生産品の配給など)をが行われ、国民の監視が合法化され、転覆の運動や陰謀の防止のために密告が奨励される。ドイツやソ連、日本のようなファシズム全体主義国家のみならず、アメリカ、イギリスでも同じような戦時「共産」主義、国家による経済統制が遂行された。総力戦では国家の役割が非常に大きくなり、無制限の権力を執行できる。なので、戦争状態の継続は権力の拡大や維持にはもってこいなのだ。平時においてそのような権力を欲する運動は外国の侵略の危機と国内の陰謀(いずれも存在しない)を煽り立てて、国家を戦時状態にしようとする(それが「「右傾化」というやつ)。
 もちろん21世紀の視点から振り返ると、国家の秘密警察化はコストがかかりすぎ、生産性を下げることになる(T・K生「韓国からの通信」など)ので、あまり実施されない。国内経済だけでは国家の経済を維持できないもしくは経済成長が望めないので鎖国はできないし、国家がやってきたことが別の組織やグループに移譲されて国家の役割や影響力が減少してきているから。そのようなグローバル化されつつある21世紀には上記のような鎖国状態の国家における統制化、党権力の拡大というのはアナクロニズムに見える。
 一方で、国家の内部の小グループの役割や影響力が拡大するとき、権力を維持・拡大することだけを目的にした「党」が形成されることがある。むしろ、しばしば。そのときに、「党」が構成メンバーやステークホルダーに忠誠を要求し、党の中心にいるカリスマの命令に従い、批判能力を欠如し、人権侵害や他者襲撃、ひいては虐殺を起こすことが起きている。国家のように構成メンバーに監視され、批判され、トップを更迭する機能を持っていない小グループではこの小説のような「党」の支配と暴走が起きてしまうことがある。その点では、この小説の社会構成はアクチュアリティをもっている。

  

2015/12/02 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-2
2015/12/03 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-3
2015/12/04 ジョージ・オーウェル「1984年」(ハヤカワ文庫)-4