odd_hatchの読書ノート

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ジョージ・スタイナー「ハイデガー」(岩波現代文庫)-1

 現象学ハイデガーの本(おもには解説書)はいろいろ読んできたが、どれを読んでもよくわからない。むしろ若いときより理解や共感が浅くなっているのではないか、若いときの方がより理解・納得していたのではないかと不安になる。彼の言葉が変わるということはないので、自分が変わったせいだろう。そこで、「ハイデガー入門の決定版」と出版社が称する本を読む。原著1978年、改訂1989年。

ハイデガー1991年 ・・・ 原著の再販時に追加された文章。2部構成で、1部では1920年代ドイツで黙示的な大作があいついで書かれたことに注目する。ブロッホユートピアの精神」1918年、シュペングラー「西洋の没落」1918年、バルト「ローマ人への手紙注解」1919年、ローゼンツヴァイク「救済の星」1921年ハイデガー存在と時間」1927年、ヒトラー我が闘争」1925年。以上は「全体」志向で予言的でユートピア的という共通性をもつ。後半はハイデガーナチス加担について。彼はフライブルク大学総長就任から敗戦まで党員であったことを隠し、また戦後はユダヤホロコースト絶滅収容所に沈黙した。このような人間性に対する断罪。一方で、「存在と時間」他の思想に関する関心。ハイデガーへの態度はこの両極にわかれる。ハイデガーの思想には悪の概念と倫理学が欠けている。それが彼の当初の企図が完成しなかった理由。

序言にかえて ・・・ ハイデガーの理解の困難さは、1.全著作は未完であること、2.生前から評価が両極端であること、3.文体と用語(独特な語彙、連結語、カバン語、日常用語に込めた独特な意味など)、4.ナチス加担、など。問いの中心は、ハイデガーが「存在(ザイン)」と呼んでいるものは何か。

1 いくつかの基本的用語  ・・・ 加齢につれて自分の考えは実証主義素朴実在論に傾いてきたので、この章の議論はよくわからない。たぶん20代のときのほうが、もっと「納得」していたと思う。で、ハイデガーは「なぜ存在するのか、なぜ無ではないのか」と問う。そのように問いかけることによって、存在が「感応」し、存在があることに驚きを持つのである。ところが、その驚きでもって存在を口にしようとする同時に「ある」は消える。そうなるのは現代人が存在を忘却しているからであるが、言葉も消耗していてギリシャ人が感じたような存在の驚きの意義や意味を失っているから。その点では、「存在」の驚きを回復するには、言葉の語源を探求し、元の意味を回復することである(そこに言語分析の意義もある)。究極的には存在は「無」から生成するとハイデガーは考えるが、この「無」は空虚や否定ではなく、事物を生成させる決定的な不明。これは神秘的な考えだし、キリスト教神学と共通しているし、本人は否定しているが西洋の形而上学の系譜に連なる考え方。おいらのような素朴実在論の立場だと、最近のM理論でこれらは科学的に語れるのではないかと妄想したりする。この章にはもっと豊饒なアイデアがたくさん書かれているが(存在と意味と時間を音楽の比喩でかたるところとか)、自分にトレースできるのはこれくらい。

2 存在と時間  ・・・ 著者がユニークなのは、時にハイデガーを突き放して見ることで、そうするとハイデガーの思想は20世紀初頭の思想潮流(「ハイデガー1991年」で取り上げたような)との関連が見いだせる。そうしたなかには、神学・表現主義ヘーゲル主義、ときにはマルクス主義などからアイデアを取り入れている(のか並行関係にあるのか)がある。さて、daseinは「そこにある」ということで、日常的事象・事実性に基づいていわば「世界に埋め込まれている」。プラトンイデアとは別の考え方。世界は、人間が関心・配慮を持って関係しようとする事物(「道具」)として現れる。他者は、主体の関心や配慮をもって「仕事(道具を使って世界に働きかけること、被投性かな)」のうちに現れる。これは人間の存在の本来的あり方がだが、この存在の本来性から人間は頽落していて、それは「他者」を無個性・無名なだれかにおとしめているから。それが跳ね返って自己を疎外することになり、人間は非本来的な、無責任・応答不可能な「ひと」になる。でこれは実存の不可欠・不可避の構成要素だそうだ。多忙で空疎な非本来的な「ひと」はときに不気味さ・家なしのめまいを感じることがある。そこまま非本来性にとどまるか、自己を再所有化するかを決断する。自己の再所有には気遣いが必要。気遣いは関心・配慮、責任、応答可能性といえる。そして再び最初の問いに戻る。再所有すべき存在とはいったい何か。ここの分析が見事で魅惑的。それに神学やマルクス主義にも似ていて、たぶんファシズム下で抑圧されたインテリや知識人が飛びつくような蠱惑的な魅力をもっている。そう、そこで本来的自己の再所有のために「存在の革命」が要請されるというわけなのだろう。


 ハイデガーの思考はドイツ語に深く根ざしている。In-der-Welt-seinを「世界-内-存在」と翻訳したとたんに、元の言葉のニュアンスをなくしてしまう。その事情は、もっと近い言語である英語でもそうであるらしく、ハイデガーのさまざまな創造語・カバン語の翻訳に四苦八苦している。そういう意味では、これだけコンパクトにまとめたものでも、ハイデガーの思想に近づくのは困難だと痛感。
 それに自分はハイデガーのように執拗に問うことができないのもある。実証主義素朴実在論に親しんでいるのがその理由のひとつ。かつてはできていた秘教的、呪術的に考えるができなくなってきた。
 あと気になるのは、科学技術の進展で宇宙の起源や消滅がより確からしく語れるようになった時、このような存在論は意味を持つのか、ということ。2次元の膜(メンブレーン)や5次元の膜の広大な領域の片隅でビッグバンが偶然おこり、超歴史的な時間を経て消滅する、その宇宙的な時空間の瞬間現れる泡が地球であり、人間であるというような説明になり、存在が無から生成されるが、ただあることそれ自体は無根拠であるというような説明になったとき、ハイデガーの議論はそのような宇宙論に組み込まれてしまうのか。まあ、素人の思い付きくらいのことは専門家が考えているだろうから、どこかにとりあえずの答えが表明されているだろう。

  

2015/12/18 ジョージ・スタイナー「ハイデガー」(岩波現代文庫)-2 に続く