odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-3 存在の苦悩、生の悲哀」の弾劾はついに時空や宇宙を超越するものを召喚するまでにいたる。

2021/06/01 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第七章 《最後の審判》-2 1984年の続き

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 「より重苦しく鈍くより厳しい響きが何処からともまったく解らずゆっくりと『違うぞ』」と響いてくる。「この影の影の影の国の果てにあるその長さも見届け得ぬほど高く幅広い薄暗い帳へと矢庭に走っていって、その「重さのまったくない帳」を押し開いて、そとを覗いてみました。『誰もいないぞ!』(略)叫びあげました。」

 このシーンはユーモラス。初読のあと、唯一繰り返し思い出し、そのたびにほくそ笑んでしまった。
 この声は、空間の「そと」にいる「無出現の思索者」となのる。「存在の苦悩、生の悲哀」を弾劾する行為は次々とメタレベルに向かっていき(生者→亡者→胎児のまま死んだもの→最初の単細胞→時間と空間)、ついには時空や宇宙を超越するものを召喚するまでにいたる。まるでスポ根マンガや格闘技マンガによくあるライバルや敵のインフレーションだ。追及の矛先がわれわれの物理存在(を宇宙ははるかに超えているのだが)をさらに超える超越を呼び出す。これ以上はないくらいの巨大さ。
 「無出現の思索者」がいうには、なにもない宇宙を新しく創り続けてきた(どうやってかというと、思索が「在る」になるからだという。デカルトの「cogito, ergo sum」が創造の力になるらしい。そこから真空宇宙、収縮宇宙、蒸発宇宙、盲人宇宙などのさまざまな宇宙をつくり、《最後の審判》が行われている亡霊宇宙は無重力宇宙であり、つぎに重力宇宙、存在宇宙を創るという。虚無と虚無を互いに掛け合わせるとどうなるかを思索し、創造的虚無をみいだしたのであった。これはおそらく当時の宇宙論が反響している考え。ビッグバンがただ一度きりの出来事ではなく、超宇宙で時々起きて、そのサイズや条件などで物理法則の異なる宇宙が干渉しあうことなしに「ある」。創造的虚無も無理やりいえばダークマターダークエネルギーと親和性がありそうだ。
 というのは「無出現の思索者」は「俺は虚とともにあり、虚は俺とともにある」。亡者どもの存在は数字1しか知らないが、俺(無出現の思索者)はゼロと無限大を知っている。ゼロと無限大を掛け合わせると数字1ではない虚数iがでてくる、とまあこんな感じの議論をする。存在宇宙は数字1であって、正と負、生と死、在と非在の±1の掛け合わせしかないが(それが「存在の苦悩、生の悲哀」の理由)、ゼロと無限大の掛け合わせは「非出現」であり、時空から解放された自在宇宙となるのだ。
 ここら辺にくるとあたまがくらくらしてくる。存在の探求は、思索を基盤に、生物学(食物連鎖、生殖など)から物理学、宇宙論を経由して数学にいたる。科学の方法が抽象化していくと非在の宇宙を構想するように、存在をめぐる哲学と思想の方法も非在の宇宙にいたるというわけだ。
(第2日は、気持ちの良い晴れの日であったのだが、矢場の話は空き車庫の下にある、一坪半ほどの狭いところで、ろくな照明もない薄暗い地下室の中で語れらる。光を忌避し、闇や影の中にいるのだという、作家の意思のすさまじさ。この闇や影も矢場他の登場人物の心象風景にほかならない。)
 読者である俺は、哲学も多少は読んだが、むしろ科学の勉強をしたこともあって、哲学の存在論や認識論はよく理解できない。デカルトの「方法序説」も松果体の誤りが気になるし、ハイデガーフッサールでは文体がもう受け付けない。そしてもう科学の素朴実在論でいいやと思うようになった。そうすると、物理現実を超えた存在や超越者を想定する必要はないとか、肉体よりも精神を重視するといいつつ肉体の制約(捕食、生殖、死など)を弾劾するのは滑稽だとか、個人の思索を徹底しつつも集合知である科学の成果によりかかるのはどうよとか、初読のときほどの集中力をもって読むことはできなかった。
 むしろ、このエントリーの冒頭に書いたエピソードのような想像力、様々な文体を駆使した模擬裁判のような弾劾、完璧に見えた弾劾が次の弾劾者によって不備を指摘される構成、こういう小説の技法が面白かった。《最後の審判》を読んでいる間、デイヴィッド・リンゼイアルクトゥールスへの旅」を思い出していた。そういう視点では、この章は優れた英国風の幻想小説


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2021/05/28 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第八章 《月光のなかで》-1 1986年に続く

 

<追記 2021/6/3>

 俺は思索することは言語を使って文章を生成することだと思っているから、「無出現の思索者」が存在する前に言語があると考えてしまう。
「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」
ヨハネによる福音書冒頭になってしまうのじゃないか、と。