odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第九章《虚體》論―大宇宙の夢-3 日本語の限界が探求の限界。「死霊」全巻を読んでも、存在の無根拠さと孤独を克服できない。

2021/05/24 埴谷雄高「死霊 III」(講談社文芸文庫)第九章《虚體》論―大宇宙の夢-2 1995年の続き

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 とはいえ、五日間の物語は三日目にようやく至ったにすぎない。登場人物たちのアクションで行く末の分からないままになったことはたくさんある。首猛夫は津田康造への宣戦布告をどのように展開したか。印刷工場から盗まれたダイナマイトはどこにいったか。首は誘拐監禁している矢場をどうするのか。黒川の持ち込んだ円筒形の金属はなんなのか。津田夫人は安寿子と与志の結婚を認めるのか。「処女の淫売婦」であるねんねを追いかける「筒袖の拳坊」はどのような事件に遭遇するのか。なにより与志はどのように「最後の言葉」を語るのか。序で予告された仏陀と大雄の会話はどのようなものになるのか。与志と安寿子の行く末はどうなるのか。
 以上の語られなかった物語は、だいたい推測することができる。とはいえ、「虚体」をめぐる議論を抜きにしたストーリーを想像してもたいして価値はない。探偵小説的な構成をとっているという作者の思惑からすれば、通俗的な結末になることもありうるだろう。
(川西正明「謎解き「死霊」論」(河出書房新社)を読むと、1970年代の対談で全体構想を語っていました。)
 それよりも、精神重視と肉体嫌悪から始まり、存在の不快と生の悲哀をめぐる探求はより巨大で、深奥ななにごとかに向かって、日本語の語彙で語れる最大・最奥まで到達してしまった。肉体の制約を離れ、時空間を否定し、宇宙から大宇宙、そして無限に到達した思考はその先になにを語ることができるだろう。日本語の限界が探求の限界になってしまった。
 精神重視と肉体嫌悪を端緒にする方法的懐疑や存在論は、存在の根拠をついに発見できない。この「私」に限らず、なにかが「在る」ことの意味や価値を存在それ自身のなかに見出せない。宇宙的な歴史において、なぜ「いま」「ここ」にあるのかを示すことはできない。そうすると、根拠を存在の外に求めるようになる。神(デカルト)、国家(ヘーゲル)、民族(ハイデガー)、党(レーニン)などが代表的なやり方。「死霊」の作者は存在の外の観念を根拠にすることはなかったが、宇宙や大宇宙、無限などの観念に見出そうとする。その観念はあまりに巨大で、抽象的で、多くの人が共有できる考えではない。
 読者である俺は、「死霊」全巻を読んでも、存在の無根拠さと孤独を克服できない。
 「東洋思想」やニューサイエンス、神秘思想のようなホーリズムや輪廻転生で、われわれは孤独ではないとなにかに合一している感じにふけることも可能。でも、一時しのぎだろう。
 なにしろ現代天文学や物理学の知識を使うと、この「私」を構成している分子も発生をたどると恒星の中で生成され、爆発して四散したものが、別の重力あるものに引かれて惑星系をつくり、偶然発生した生物が利用したものだ。鉄、マンガンほかの金属がかつては太陽の中心で圧縮されていたのだなんて。この「私」に死が訪れた後、分子や原子に還元され、また別の生物が使ったり、海に堆積して新しい地層を形成したり。その「転生」もいずれは太陽の爆発で蒸発して、ガス状になって宇宙空間を漂う。宇宙の膨張はとどまらず、一千億年もすると、光や電磁波で観測できる範囲の宇宙のなかには銀河系以外の星は見つからなくなる(そのとき知性体があったとしたら、われわれのようには宇宙を認識しないだろう)。さらに多くの時間がたつと、ついにエネルギが平準化され、原子を含め、運動するものはなくなる。そこには、ブラックホールに吸い込まれなかった砂や岩石が始原と同じ形のまま残っているかもしれない。千兆年もたったさき、「ない」というのもおかしなことになる宇宙が「ある」。もはや「いま」「ここ」にいる「私」の精神や自己などはなくなり、意味を持たず、継承すらされていない。
 以上の宇宙的な孤独と消滅を克服するやり方はまだみつからず、当面は存在の無根拠と無意味に耐えるしかない。


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川西正明「謎解き「死霊」論」(河出書房新社)によると以下の構想だったらしい。
首猛夫は津田康造への宣戦布告をどのように展開したか。印刷工場から盗まれたダイナマイトはどこにいったか。黒川の持ち込んだ円筒形の金属はなんなのか。→第9章で円筒形の金属に仕掛けられたダイナマイトが爆発して黒川が死亡。
首は誘拐監禁している矢場をどうするのか。→言明なし
津田夫人は安寿子と与志の結婚を認めるのか。→言明なし
「処女の淫売婦」であるねんねを追いかける「筒袖の拳坊」はどのような事件に遭遇するのか→一人狼がねんねを犯し、隣の部屋にいながら阻止できなかった「筒袖の拳坊」が一人狼を刺殺、一人狼は「筒袖の拳坊」を返り討ちで刺殺
なにより与志はどのように「最後の言葉」を語るのか。序で予告された仏陀と大雄の会話はどのようなものになるのか。与志と安寿子の行く末はどうなるのか。→生と存在の秘密を明かした途端に与志は息を止め、安寿子も同じように息を止める。一緒に心中。ただし、この構想はのちに破棄。与志が虚体になる道を作者は探る。

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