odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「快楽 下」(新潮文庫)-2

2016/04/29 武田泰淳「快楽 上」(新潮文庫)-1 1972年
2016/04/28 武田泰淳「快楽 上」(新潮文庫)-2 1972年
2016/04/27 武田泰淳「快楽 下」(新潮文庫)-1 1972年 の続き。


 この大長編は1960年から1964年まで5年間連載して、未完のまま中断した。作者は完結させたい気持ちがあったようだが、体調不良もあってついに完成しなかった。この人の長編の常として、書くほどに登場人物や主題が膨れ上がり収拾つかなくなるというのがあるが、これはその典型。
 議論好きな人物が活発に動き、行く先々でしゃべりまくるというので、自分はドストエフスキーの長編を思い出した。とくに「カラマーゾフの兄弟」。たとえば穴山はラキーチンやスメルジャコフのようだし、久美子はリーザで、宝屋夫人はグルーシェンカのよう。ほかにもテロルや社会主義運動に熱中する人物、病弱で頭脳明晰な青年、色欲の塊であるような実業家、意地の悪い特高刑事、悲惨な生活の貧乏人、宗教狂いなど、この国の文学ではめったにお目にかかれないドストエフスキー的な人物がたくさん登場する。妙にリアリティを感じるのは、ファシズム軍国主義に傾斜していく危機的な社会情勢化に昭和初期があったためとも推測され、その緊張に満ちた社会においてはドストエフスキー的な人物もありえたのであろう。
 でも、「カラマーゾフの兄弟」のようなダイナミックな作品になりえなかったのは二つの理由があると思う。まず、主人公である柳が観察者、傍観者に徹しているところ。彼のところから「事件」が発生するわけではないので、穴山や西口、夫人や久美子の「物語」が遠く、無縁なものに思えるのだよね(一言口を添えると、自分は柳の中途半端さや理屈っぽさにはとても共感する。女性にモテモテなのは悔しいが、それ以外での感情と行動は19歳の若者をよく描写していると思う)。
 さらに、決定的な出来事が始まる前か終わったあとかのできごとを書いていること。決定的な出来事、事件の描写は回避されている。たとえば柳と穴山の決闘の様子は描かれないとか、越後が期待する「日本革命党」の「A計画」の詳細が知らされないとか、穴山のオルグが書かれないとか。おそらく1500枚に達したこの大長編は、「カラマーゾフの兄弟」の第1部の3分の1くらいしか物語が進んでいないのだ。ずっと予告編を読まされている感じ。その展開ののろさは魅力ではあるのだが、しかしこの長さにはへこたれることになりそう。これは作家の他の長編(「富士」「森と湖のまつり」など)でもそう。
 作家はこのあと教団の分裂抗争や革命団体の分裂抗争があると予告する。そこからこのあとのストーリーを妄想してみよう。
(1)教団の分裂抗争・穴山による奪権があり、柳の父は旧主派としてつるし上げを受けることになる。父のおぼつかない演説は穴山の追求ないし提案を拒むことができない。そこで柳は父にかわり、教団の「愛国化」を防ぐ議論を穴山と闘わすことになるのだろう。そこで「快楽(けらく)」と平等の実現に関する巨大な理論ができるかも。同時に、柳は病弱の秀雄(柳の宗派の総本山の跡取りで秀才)とも、議論を深めなけらばならず、おそらく秀雄の臨終を柳は見届けるだろう。
(2)革命団体「日本革命党」は、西口のレーニン主義と三鎌および越後のテロリズムに分裂する。当然、官憲の感知するところとなり、越後らの用意した武器弾薬は格好の摘発の口実になるだろう。そこで、西口は久美子を使って越後らを誘い出し、リンチ殺人事件を起こす。その現場に柳は立ち会うかもしれない。西口、久美子らが逮捕され、柳は久美子の弁護に立たねばならない。
(3)宝屋の夫人との関係は、野暮天の自分には予想がつかない。穴山の没落と久美子の逮捕とともに、軍隊に卸す話は消え、1と2の柳の活躍は宝屋には煙たいことになり(特高あたりの捜査がはいることで)、主人は夫人に決着付けるようにいうのではないか。
(4)教団は穴山の逮捕(西口逮捕による捜査で、彼の暗躍が暴露される)などで、とりあえず安泰になるだろうが、父などの指導部に対する不満がでて解任されるのではないか。さらに浄泉寺(柳らの実家)を追い出され、父母の離婚にもなるのかもしれない。
(5)そうしたうえでも柳は何も変わらない。「絶えず恥ずかしさ、強がり、自己弁明にとらわれながら行動するが、同時にきわめて無反省、無意識な状態にとどまっている」のは、上記の「事件」が決着しても同じであるだろう。そうすると、柳は小説世界から追い出されるであろう。それは招集通知であり、小説冒頭の留置場と同じようにあらゆる階級の集まる軍隊の一兵士として、中国に出征することになるのではないか。
 というような残りの筋を考えてみたとき、慄然とするのは、この構想を同じペースで描くとなると、現在ある「快楽(けらく)」のゆうに4倍以上のテキストになるだろうという予感だ。およそこの国では書かれなかった巨大な作品。失敗作であることを除けば、傑作。この作家の代表作に他ならない。