odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「快楽 下」(新潮文庫)-1

2016/04/29 武田泰淳「快楽 上」(新潮文庫)-1 1972年
2016/04/28 武田泰淳「快楽 上」(新潮文庫)-2 1972年 の続き。


 では大状況とか形而上的な世界は何かというと、ふたつ。これは柳の思考ないし内面に現れる。
 ひとつは、仏教の快楽(けらく)について。通常、快楽(かいらく)は肉体的な充足、というか欲望の満足にあるのだが、仏教ではそのような肉体的な、形而下的な欲望は否定されることとされる。禁欲をふくめた欲望の廃棄のはてに現れるのを「快楽(けらく)」というのだが、その実態ないし体験を得るのはきわめて困難。それは仏教のような宗教的な修行で獲得できるのか、その獲得には価値があるのか、という問い。世に宗教に熱中する人は世俗の側にたくさんいるが、必ずしも禁欲を実施するわけでもない。いくつかの念仏を繰り返し唱えるくらいのコンビニエンスな行動で極楽とか幸福を獲得しようとする。それに対し、(当時の)仏教は「否」といっているようではない(柳の実家の大寺の経営とか宗派の資金集めなどからみて)。ではどうするか、という話になり、柳には二つの方向があるように思える。ひとつは貧困者や困っている人の社会にコミットして、そこで生活すること。実践者は、三鎌という高等学校を退学して肉体労働者になった若者であり、久美子という自己犠牲の概念に憑かれて社会主義運動に入っていくこと。二人とも禁欲を己の生活の方法にして、自己を滅私していくというわけだ。そのような追及がオルタナティブとしてある。もちろん大寺の息子であり跡を継ぐことを養成されて、父母や宝屋にがんじがらめにされていて、しかも官憲の監視下にある身としては彼らのようなジャンプは行いえない。行いえないからこそ、彼は駄弁を重ねる。もうひとつの方向は、宝屋夫人の誘惑。うらやましいことに美青年であり、(読狭い社会とはいえ)聖なる印をもっている柳には、肉欲の誘惑がつきまとう。それに乗ること、その誘いを断ること、肉欲の提供者が他人と性交することに耐えることが柳におこり、その妹・久美子のきわめて観念的な(あるいはプラトニックな)「愛」にも答えなければならないと考える。そこの葛藤の行く末に、快楽(けらく)の道がひらけるのかもしれない(というわりには柳は中途半端でのらりくらりとするだけだが)。
 もうひとつは平等について。仏教としては社会や世界の成員は平等であらねばならないとされる。ところが社会や世界に平等はなく、仏教教団もその実現に努力しているとは思えない(むしろ国家の後ろ盾を利用して不平等の拡大に寄与していると見える)。その問いは、柳の遍歴からみえてくる。労働の疲労で衰弱死した女工の葬式であり、残された小学生の妹であり、工場や熱海の別荘の周辺にいる低賃金の労働者たちであり、留置場にいる窃盗犯や詐欺犯たちであり、たどたどしい日本語でしゃべる朝鮮人である。彼らの突きつける貧困や不平等をどうするか。ここでも対立する二つの考えがでてくる。ひとつは、穴山であり、彼はすでに生き物は平等なのであるから(現在の社会や世界に見られる不平等はばらつきの範囲内)、自分はさらに不平等を実行するのだとうそぶく。そして軍隊と薬屋を結び付けて信用を得るとともに、教団内に同士を募って宗派の覇権獲得に乗り出す。もうひとつは労働運動、社会主義運動であり、西口をリーダーとする「日本革命党」である。その実践は目覚ましい(厳しい弾圧にあっているにしては)。しかし機関紙から見えてくる内部統制や久美子から伝え聞く運動内部の実情からすると、平等を実現する運動体内部では不平等がある。そこを久美子のように「党を愛する」と観念的に妄信することもまた倒錯に思える。そのうえ、穴山にしろ久美子(ないしその後ろ盾である「日本革命党」)は、党や革命や己の信念に敵対したり弾圧したりするものに対して、「殺す」ことを躊躇しないと宣言する。そのようなテロルの論理は平等の実現において許容されるものであるか。
 おおよそこのような「快楽(けらく)」の追求と平等の実現をめぐり、複数の意見が対立し葛藤し議論を交わすのである。きわめて粗雑にまとめてしまったが、これらをめぐって登場人物の誰もが雄弁に自分の考えや信念を口にする。どうやら作者はこれらの問題の解決を図るというよりも、現状のさまざまな議論を百科事典のように網羅することに熱中していると見え、議論を深めるよりも拡散する。


2016/04/26 武田泰淳「快楽 下」(新潮文庫)-2 1972年 に続く。