odd_hatchの読書ノート

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武田泰淳「森と湖のまつり」(新潮文庫)-3

2016/05/17 武田泰淳「森と湖のまつり」(新潮文庫)-1 1958年
2016/05/16 武田泰淳「森と湖のまつり」(新潮文庫)-2 1958年 の続き。


・形而上的には「神の愛」について。アイヌの汎神論的な自然の神と、ミツが信仰するキリスト教の神。それらの神を捨てた(あるいは見放した)無神論(これはミツの元夫の先生おどが体現)。このような神をめぐって、人物たちは独り言を言う(それを聞くのは佐伯雪子一人なのであるが、彼女は特定の神を持たないので、彼ら/彼女らの神を理解することができない)。ドスト氏のように現実の苛烈さ、貧困・病・老いなどの苦悩を克服し、地上を変えるための契機になるような神を持たない日本人には、この主題はとても難しい。雪子はそのような形而上の主題を持たない(肉欲にも肯定的だし)、神との接点がないのでね。アイヌの熊祭りで、熊の死体を見ても、自然神への感謝をもつこともならず、それは読者である自分もいっしょ。
・むしろ神よりも肉体の美しさ、可能性に関心があるのかもしれない。一太郎は「キリスト」に似た要望を繰り返されるし、雪子は数回の性交を回想しては「快楽」か「天罰」ないし「裁き」かと考えるし。逆の現れは、ミツの元夫の先生おどの肉体嫌悪(妻に逃げられたあとに浮浪者になり、復縁が実現できずに自殺)、トウロの宿屋主人のマゾヒズム(毎年一太郎に殴られ、シャモの青年に殴られる)。こちらの肉体の美と嫌悪の関係のほうが記憶に残る。


 ざっと主題群をあげるとこんなところか。小状況では雪子をめぐる複数の女の愛欲、池や一太郎や網元などのアイヌたちの中状況では政治的・経済的闘争、大状況では神または肉体について。これらが未整理に、解決を付けずに投げ出されている。なるほど、新潮社の1960年代の武田泰淳集で埴谷雄高が解説に書いているように、「在る数行の章句にうちあたって凄まじいショックを受ける」「そのショックは世界文学のすぐれた作品とまったく同じ」だけれども、「その驚くべき鋭さが作品の冒頭から後に至るまで一貫して閃光を放っているとはいえない」。まったく同意。この「森と湖のまつり」によくにた小説を思い浮かべると、自分の貧しい読書ではドストエフスキーの「悪霊」第2部。ドスト氏の者と同じくらいに、多彩な人物が現れ、重大な会話や独り言をしゃべり、さまざまなアクションをしている。そして(スケールは劣るが)華々しいクライマックスをぶち上げた。では、あるいは、さてというところで、小説は終わる。続きは?あるいは解答は?という読者の疑問には答えがない。すでに小説の人物には決着がついて、事件も完結してしまったし。でも問題はそこらにたくさん投げ出されたまま。
 でも、逆に考えると、この国の作家で、ドスト氏の方法と主題を引き受けて、巨大な作品を書かれたことはあったのだっけ。ほとんどこの作家一人がになってきたのではないか。そう考えると、この小説はこの国の文学史では重要な作品にみえる。成果は失敗そのものであっても。


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