まず、裾野がある。
「なんという木か、途方もなく大きい木が一本、もろに横だおしに、地ひびき打って・・・…その木はだいぶまえから日でりにも風雨にもそこに野ざらしになっているようだから、たったいま落ちかかったわけではないが、それでもくるぐろとした幹はうなりを発するまでにすさまじく、あおむけにのけぞって、大枝も小枝もなく、葉の一つすらなく、手足をぶったぎられた巨人の胴体が泥まみれに、ほとんど血まみれに心投げ出されたというけはいであった。(中略)、もしかすると行きだおれの人間の死骸まで下積になっていても不思議でなく、その他ごたごた、やけにぶちまけたのが高く盛りあがって、それは廃品の山であった(上巻P4)」
ここには、うつしよのゴミ、野菜くず、廃品その他が捨てられ朽ちている。だれも寄り付かないのは、世の穢れ、汚わい、排泄物、不良品がことごとく集められるばかりではない。過去や歴史の妄執、怨念、亡者、怨霊が巣食い、闇から光に出ようとあがいているからでもある。生身のものがうっかり立ち寄ると、これらの過去と現在の汚わいに巻き込まれるだけでなく、野犬の群れが脅しをかけに来るであろう。ときには式神とも思しき悪霊のひとつやふたつが背に張り付いていくのである。
さてここに一つの死骸が放り出されたと思いなせえ。死骸は裾野に珍しくもなく、すぐさま廃品の陰に埋もれて、土に還るであろうが、そこには古びたシャベルを片手に裾野に住み着くことにしたマゴという若者がいた。彼はなにかの妄念に背を押されて、歯を掘り出す決意をしていた。そして世の厄介者として生まれ、母から古文書を受け継ぎ、ようやく裾野に地歩を固めたヒメがそこに居合わせた。過去の縁か霊感が後押ししたのか、二人は会うべくして会い、以後業を共にするのである。
捨てられた死骸には柳産業社長の肩書が張り付いていた。死骸にはもはや不要ではあるが、のこした柳産業の社長の椅子には目がくらむ。そこで専務・桃屋義一は会社の有力者を味方につけ、秘書の新川眉子と悪計を講じては着々と椅子を奪いにかかっていた。
さて死骸の係累をたどると甥の安樹(ヤスキ)にぶち当たる。こののらくらで、女たらしで辛抱のない不良は、この機会に先代社長の跡継ぎを名乗り出て、富を獲得しようと画策する。彼の遊び仲間である桃屋初吉(ハツ)は儀一の出来の悪い末弟。ヤスキの提案にのって、エディとさち子、マヤを従えて色仕掛けの罠を儀一と眉子の周辺に貼る。このさち子とマヤ、すでにヒメに心酔していて、ハプニングとエロスが大好物、おまけに冒険危険とアドリブが大好きという連中。儀一と眉子のたくらみはそのままヒメに入る仕掛けになっている。そして内偵、偽手紙、色仕掛け、はったり、などの虚々実々の駆け引きの末に、まずは儀一は柳家の別荘・紅葉御殿に主だった役職者有力者を集めて、大パーティを行うことになった。
出し物の目玉はエディ一座のランチキ演武。そのあとの暗闇で、お楽しみを客に任せるつもりであるのをヤスキとヒメが見逃すわけはない。儀一の趣向を捻じ曲げ、押し戻し、ねじれに混乱を巻き起こす。さち子とマヤの身が危うくなったとき、裾野の野犬が一陣の風のごとく疾走し、闇に明かりを戻した時、彼女らの姿はない。(以上上巻)
とはいえ、柳産業の金のなる木をみすみす人の手に渡すのも惜しいと見え、鶴巻財閥の総帥大吉が立つことになった。まずは甥の大学教授・小吉に柳を名乗らせ、ついでに参議院に出馬させる。これは柳産業の跡目争いに釘を刺したとみることができよう。儀一は攻勢に手をこまねいているはずもなく、ヤスキの命で儀一の懐にしのんだハツを小吉に差出し、スパイとさせる。そこであきらかになったのは、眉子もまた小吉陣営に食い込んでいて、いずれかが倒れようとおのれの利になるように、駒を張っていることだった。ヒメはさち子とマヤを大吉の身近に取り入らせ、よって大吉・小吉の心模様を調べることにする。その時、ヒメは古文書の記述された神代の使命を思い出し、心はすでに裾野の地下に向かっている。ヤスキは数代前の御前の大ランチキに度肝を抜かれ、己の精神の貧しさを思い知らされ戦いの行く末に心奪われることがない。
柳産業の富はもはや目的ではなく、大吉とヒメの争いに転化されたか。裾野の亡者を操るマゴの力がヒメに乗り移ったか、死骸をくるんだ毛布でつくったマントを身に着け秘術を用いた時、大吉はヒメに懸想していたのである。この世の富と力の欲望は大吉の一物を巨大な陽根に変え、さち子とマヤの技術をもってしてもなえさせることができない。ヤスキの拳銃が火を噴くとき、マゴとヒメは地下深く、亡者と怨霊をわが身に従える決戦に挑んでいたのである。
「裾野には亡者はじめ、のら犬、がらくたの屑まで、みなおののいてしばらく震えやまなかった。ときに、マゴ矛を掲げれば、その指す方に日ざしにわかに暗く、雲むらがって、吹きおこる風に雲はこまかくちぎれて飛び、くるぐろと飛び散るところ、羽ばたきの音ものすごく、すなわち大がらす小がらすのむれへ入りみだれてななめに、たてよ》」に荒れくるい、空いちめんに潮けめぐった。つばさ濡れてしぶくかと見るまに、ふる雨どっとなぐりつけて、川の波さわぎ、亡者の炎も消えるほどに淡く、裾野は夜の闇であった。(下巻P433-434)」
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