odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「富士」(中公文庫)-3

2016/05/10 武田泰淳「富士」(中公文庫)-1 1971年
2016/05/09 武田泰淳「富士」(中公文庫)-2 1971年 の続き。


 たぶん主題は、人は誰かの役に立てるか(それが挫折したときにどうするか)なのだろう。桃園病院のステークホルダー(医療者、介護者、患者、その家族、周辺住民など)はたいてい誰かの役に立ちたいと願っている。でも、戦時中の治療技術ではほとんど効果がないし(薬物治療のなかったころだ)、戦時統制体制のためにキャパを越えた患者が病院に押し付けられる。とくに後者の施策は病院を崩壊させるものであったし、強硬な軍人には患者は「国の役に立たない」から収容、断種、抹殺などを唱えるものが多数いた(ナチスでは全部実行されたのだった)。
 そのような厳しい状態であって、人は誰かの役に立てるか、むしろ積極的に役に立ちたいと願っている。フォーカスするのは甘野院長か。この病院の責任者であって、周囲の無理解と予算の不足と不祥事の続発と効果のでない治療でいつも窮地に立っている。イライラし八つ当たりしあるいは逃げ出したくなりそうな状況であっても、院長は全力を尽くす。すべての患者と治療者に公正に接し、便宜を図り、根気強く治療にあたる。ときにはそれ以上のこともする(村の仕事や共同体になじめない発達障害を持っている娘を子守にむかえるなど)。そのような努力は彼を仁徳者と認めさせるものではあるが、成果がでないために周囲の不満を持つ。そのうえ、防ぎきれない不幸な事態が起きる。娘が溺死し、家が全焼し(2回)、留守中に脱走した患者による殺害事件が起きる。結果、病院長を解任され、南方での精神病研究と治療にあたるよう命令される(敗戦直前で前線は崩壊寸前であり、まともなリソースがなく、戦病死が予想されている)。役に立ちたいと願い、実践したうえで、なにもかもまずい方に進む。個人の力では何ともしようもない不運が続く。それでもなお、彼は南方でも希望を持とうとする。
 院長に似た人物は「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャだろう。異なるのは甘野院長は成人して仕事を持っていて、その現場でまともな成果をあげられないことと、彼の内には「神」がいないことかな。神のような絶対善、道徳の規範を持たないのは、とてもつらいことなのかもしれない。大島との雑談でも、私は神ではないと、神の代弁者でもないといっているし。自分の行為の理由付けができないので、周囲から理解されないままでいる(その点で院長は「ひかりごけ」第2部の船長によく似ている)。その孤独さ、孤高なありかた、どうにもきつい。
 一方で女性たちはパワフルだ。庭京子は処女解任妄想のために自分が神の代弁者であって、すべての罪人に許しを与えられるというし、中里里江は一条に影響されたか自分は「宮妃殿下」であるとして世界を批判し再構築する権利があるといい(翻って一条を殺した警察や病院を激烈に批判しそれは「貴族の階段」の大川巡査の妻にそっくりだ)、大木戸夫人は夫の死と暴漢の殺害によって自分の存在価値は無であり肉体はすべての人に捧げられるべきものであるという(その結果、性の饗宴を催し、男どもを従える女王になる)。彼女らは院長のように逡巡したり、懐疑に陥ったりしないで、自分の在り方を全肯定している。もっと常識的なところにいるのは、甘野院長の妻。夫におこる悲惨と自分に都合が悪くなる決断を容認して、受難を受け入れる。彼女もまた世界を肯定して受け入れる人。たぶん作家の希望はこのような女性の在り方にあるはず(だから「私(大島)」は甘野院長の娘とのちに結婚して、病院に起きた混乱を収拾つけようとした)。
 というのが、この小説の中心にあると思うのだが、とてもわかりにくい。どうしても異教な人物である黙狂(埴谷雄高「死霊」の矢場徹吾から)である岡村少年の独我論とか、大木戸の規律と訓練を裏切って発症するてんかんとか、優美な一条の女性あしらいとかに考えが奪われがちになりそう。そうなるのは、語り手である大島が強固な自我とか自意識をもたず、自分の中に主題とかテーマを持たずに、観察に徹しているから。論文を書くために患者の観察が必要であり、目前で起きたこと・しゃべられたことをすべて記載する技術は抜群。ただそのあまりに多い情報量が整理されず、序列なしに羅列される。枚挙するだけで分類ができない博物学者なんだ。その作業が読者の側にゆだねられているとすると、ドストエフスキー並みの主題群を持ちながら、あいまいな混沌に置き去りにされる。社会とか世界のかかわりが消極的で受け身にあるのが、そうさせるのだろう。その点で「私(大島)」は同時進行で書かれていた「快楽」の柳と同じ。たぶん「快楽」の柳が成人したのが「私(大島)」になるのだろう。