odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

開高健「紙の中の戦争」(岩波同時代ライブラリ)

 1965年と1968年にベトナムに行き、戦争を体験してきた著者が紙に書かれた戦争を渉猟して、作品と作家を見るというもの。この時期に、著者は「輝かしい闇」「夏の闇」など自分の戦争体験を文学化するのに四苦八苦、苦慮していた。

深沢七郎笛吹川」の場合 ・・・ 戦国時代の甲州

桜井忠温「肉弾」の場合 ・・・ 明治時代に書かれた戦争。日露戦争203高地。この高地とディエン・ビエン・フーの類似。短期決戦であったためにその後の日本軍隊の退廃、暴力が現れなかったと思われる。

芥川龍之介「将軍」田山花袋「一兵卒の銃殺」の場合 ・・・ 大正時代に書かれた戦争。批判と描写を封じ込まれた文学。

火野葦平「土と兵隊」石川達三「生きている兵隊」の場合 ・・・ 戦前昭和に書かれた戦争。「外国に赴いた軍隊は時間がたてばかならず指揮の腐敗、解体をもたらす(P58)」、「大陸へ押しわたることを『征』と感知しないで、『救済』と思い詰めた(P81)」果ての軍隊の起こす三光作戦。軍部の検閲により批判も風刺もできず、イメージの鮮烈さのみ残る。

今日出海「山中放浪」の場合 ・・・ 1949年初出。報道班員として従軍したときの記録。敗走を重ねて、命からがら生還した記録。現実そのものが超越的に激越なので、書き手はスウィフトになる。官僚主義の徹底さのすえの滑稽さは「神様部隊」。特攻隊であったのが事故やなにかで生還したひとたち。彼らは散華したことになっているので、軍隊の員数街。任務は与えられないが、軍隊の支援(衣食、軍装そのたすべて)を受けられない。なので、彼らは軍隊の近くにいて終日ごろごろいていて、軍隊の格式を馬鹿にし、敵の襲撃に退避しない。軍によって自尊心を奪われた人々。
大岡昇平「俘虜記」「野火」武田泰淳「審判」の場合 ・・・ 「殺スカ、殺サナイカ」の逡巡とその分析。

富士正晴「帝国軍隊に於ける学習・序」の場合 ・・・ 「戦時強姦」。戦地軍隊における童貞と退屈が起こす狂気の所業。

安岡章太郎「遁走」の場合 ・・・ 中支戦線の記録。周囲に敵がいないので、食べて寝て殴られるほか何もすることがない。戦争しないときの軍隊は遊ぶ人、幼稚園。殺しも奪いも焼きも犯しもしないで、人が「滅計」する。

藤枝静男「犬の血」「イペリット眼」の場合 ・・・ 北満戦線の人体実験(輸血に犬の血を使う)と、国内の毒ガス(イペリットガス)製造。ひまつぶしでろくでもないことを無感覚で行う「畸形者」たち。

長谷川四郎田村泰次郎の場合 ・・・ (大陸に派遣された軍隊を良く書いた二人の作家の資質について)

梅崎春生の場合 ・・・ (南方に派遣された軍隊と特攻隊を良く書いた作家の資質について)

島尾敏雄「出孤島記」の場合 ・・・ (南方の孤島に孤立した特攻隊を書いた作家の資質について)

原民喜「夏の花」の場合 ・・・ 広島原爆の記録。あの惨事にありながらも、「死の媒介を得て勢はかつてなく濃密に自由に透明に知覚」する作家の精神。清潔でつつましやかな狂気、錯乱を描く。

井伏鱒二「黒い雨」の場合 ・・・ 広島の原爆の記録。あのころの日本には異常な人はいなかった。正常な人が腐敗していた。異常なのは状況のみ。この作は、平凡な人たちの痛々しくつつましやかな心の明暗を描く。ただ透明で気品があり過ぎるのが欠点。もっと無教養なものが(文章に)無鍛錬なまま一途に書いた方がよいのではとおもわせる。(であるとすると、中沢啓治はだしのゲン」がよいのかも、と妄想)

J・ハーシー「ヒロシマ」の場合 ・・・ 敗戦の翌年に広島を訪れたアメリカ人ジャーナリストによる被災の記録。24年で記憶の風化、感情の鈍化がおきている。

愉しみとしての原爆作品群 ・・・ 原爆に嘲罵の赤い笑いを浴びせた作品群。シュート「渚にて」、 モルデジャイ・ロシュワルト「レベル・セブン(世界の小さな終末)」(サンリオSF文庫)、ウィバーリー「小鼠ニューヨークを侵略」、カーソン「沈黙の春」、カレル・チャペック「山椒魚戦争」(岩波文庫)。これらの破滅作品群の弱点は、扱っているトピックはシリアスであるのに、寝床でのびのびと読むことができ、落ちを知ると再読できないこと。


 この国の作に限定しても、文学者はよく戦争を描いてきた。それは戦争が極限状態を設定しやすく、人間の反応を試す手軽な風景であったということだろう(開高が指摘するように、文学者が極限状態の設定にフォーカスしてスカスカの文学になることが多い)。なにより、この国が明治開国以降80年間も戦争を繰り返してきて、この国の人々が戦争に慣れていたこともあるだろう。上のリストを眺めてみても、舞台になる戦争と戦場は多岐にわたり、この国の軍人や兵士はいたるところに出没していたのだと、長いため息をつくことになる。
 そのうえで、これだけたくさんの文学者が無数の戦争に関する小説を書いてきたにもかかわらず、ついにまだ戦争の全体を覆いつくしていないことに驚く。そのような試み事態が無理筋であるのかもしれない。1分足らずのフィルムのほうが戦争の「全体」を想起する情報を持っている可能性があるのかも。ことに、この国の戦争文学では軍隊の中のことに目や耳がいきがちで、同僚や上官などとの親愛や憎悪、暴力と戦闘に筆が行きがち。派遣された土地の人々、敵兵のことはたいていかかれないか、のっぺらぼうで、いないこと見えないことにしている。そこは他の国の戦争文学と異なるところ(あまり読んでいるわけではないが)。そのうえに、兵士や軍人がしでかしたことに反省や省察をすることもまれで、銃を撃つとか家を燃やすとか食料を強奪するとか女性を強姦するとかで、相手の立場にたつこともめったにない。あるいは市民、一般人による戦争の記録では、被災や被害による負傷、家族知人の死、資産の喪失、故郷追放が前に立ち、加害あるいは支援についての反省や省察もめったにない。植民地に住んでいた人の記録でまれに地元住民への憐憫や同情が書かれるくらい。それくらいに戦争を見る目や耳がこの国の人(当然自分もはいる)には備わっていない。それがこの評論やもとの小説を読んだときの不満になる。なので、開高の発見も兵隊の分類や生理には妥当であっても、それを遂行する将軍や政府にまでは及ばないし、当然元の小説にもその種の記述がない。本書は力作だし、類例のないくらいに貴重なものだと思うが、開高の文章に酔っている間は高揚しても、読了するとさて何が残ったか、心もとなくなる。
 上のようにこの国はたくさんの戦争文学を産んできたが、21世紀になって軒並み入手が困難になった。品切れにならないのは「野火」「俘虜記」「ひかりごけ」「黒い雨」「夏の花」くらい。その他はさて。出版に限らず、戦後1970年までに作られた戦争のノンフィクション、映画、音楽等にもアクセスが困難になりつつある。戦争を語り継ぐ体験者が減少していることを嘆くのもよいが、これらの記録にアクセスしやすくしないと、戦争に対する考えが幼いままになるよ。