odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「貴族の階段」(新潮文庫)

 背景は226事件。何人かの作家は226事件に遭遇していて、埴谷雄高は予防検束で数ヶ月の獄中にいたときだったし、堀田善衛は慶応大学受験であったとか(その前日の夜にたぶん新交響楽団の演奏会を日比谷公会堂で聞いている)。まだ他にもいるはず。
 どうもこの人は長編を書くと、構想がどんどん膨らんでいって、着地するところを見失うところがある(「快楽」や「富士」)のだが、ここでもそんなまずさはありそうだ。短い作品ではあるものの登場人物は多く、その関係も錯綜し、事件と人物が転々として、視線が定まらない。とはいえ、読み終えるとそこにずっしりと重いものが残る。

 まず大状況を確認しておくと、主人公・氷見子は西の丸公爵家の女学生17歳。祖父は自由主義者の元老。父・秀彦は貴族院議長。いずれ総理大臣になるのではないかとうわさされる。軍隊が政治に介入するのは仕方ないと考え、そこで人を操ろうとする機会主義者。たぶん西園寺公望と近衞文麿あたりがモデルか(というのは意味のない疑問)。父秀彦の元には陸軍大臣・猛田がしばしば訪れる。この時代、皇道派近衛師団あたりに跳梁跋扈し、維新革命を唱えて、クーデターを企画している。猛田は皇道派とは一線を画し、彼らを利用したい(その目標は見えないのだが)と考え、秀彦の腹を探る。また皇道派なのか統制派なのかよくわからないO(オー)博士なる男が秀彦に近寄り、皇道派の情報をリークするかわりに、自分らに協力するように交渉する(モデルは大川周明だろうと意味のない妄想をもつ)。史実通りに、雪の振る2月26日の朝、皇道派近衛師団は決起する。一部の部隊は西の丸家を襲撃。そこに氷見子は兄・義人の上司である仕官を発見する。この大状況は登場人物のだれも動かすことはできない。主題ではなく、緊迫感を盛り上げるための背景だな。この当時の全体を把握するのは難しいとみえる。
 さて西の丸家には秀彦と妻、子供である義人と氷見子がいる。まず妻は滅魔教なる邪教の教徒であり、そちらの運動に熱を入れているため、秀彦と妻の関係は冷え切っている。義人は死にたがっている初心な童貞の19歳。近衛師団に入隊し、田舎の窮状などを知り困惑しているインテリ(もどき)であるのだな。自分の出自が貴族であることを恥じて、上司とともにクーデター計画に参加する。もちろん手駒として利用されるだけの存在であるが、本人は大真面目。氷見子は唯一のリアリスト。秀彦の書記として彼ら大人の会話を聞いているし、兄を愛している(近親相姦的な感情ではない、畏敬と憐憫と母性などのコンプレックス)。それはたぶんさくら会という女子学芸院(学習院のもじりだと意味のない妄想をもつ)の同級生のクラブでリーダーシップを持つことあたりなどで醸成されたのでもあろう(貴族院議長の娘、陸軍大臣の娘、徳川家の娘がいるとき、だれが彼女らの上にたてるのか)。
 表層のストーリーは、氷見子の成長譚かな。猛田節子に「お姉さま」と慕われていることに満足しつつ、彼女が兄・義人に求愛されていることに嫉妬し、さらに父・秀彦の愛人でもあることに立腹するという難しい状況を乗り切ることになるのだから。これも動機は自分のような朴念仁にはわからないが、節子に張り合うように氷見子は米国大使館員・京都の自動車メーカ社主・右翼理論家(これが上述のO博士)と逢引する。露骨に性交したと書いている。もちろん性交それ自身は氷見子を変えることはない。それは彼らの相手が、氷見子を利用するか、自分の不満を解消するかの意図を持っているから。ある点では、ジェンダー批判とかパターナリズム批判でもあるのかな。氷見子にもそういう心象はあるらしく、秀彦が家族に配布した強力な睡眠剤(「いざというときこれを使え」)を実験に使う。最後には、兄・義人(そのとき翌日のクーデター企図とそれに兄が参加することは耳に入っている)にも使う。結果として兄・義人と節子はそれぞれ別の場所と別の意図を持って自殺してしまう(それを聞いても氷見子は変わらないというのが不思議というか不気味。ここに少女の残酷性をみてもいいかい)。
 心に残るのはさくら会とか、大山巡査(西の丸家の警備担当)の妻(特殊部落出身)ら、女性の口を借りて出てくる男性ないし父権主義批判。たとえば、「男が死にたがっているとしたら、女はどうしようもないわね(P38)」といって(男を)死ナセナイ団を作ろうという徳川さん。男は「名誉ある死」を望む、女には「屈辱の生」がある、とか、死ナセナイ団はよく眠るが、男は眠れない(とくに皇道派の軍人とか憲兵とか)。さらには「決起するのは射精するのと同じこと」なんぞといわせる。大川巡査の妻も夫の死骸を前に

「お前たちの天皇陛下は、今ごろ、イソギンチャクかナマコの夢でも見て、いい気持ちでいびきをかいておるわい。さあなぜお前たちはうちのひとを殺した。天皇陛下のためか。大日本帝国のためか。さあ、なぜ殺しやがったんだ。言えるものなら言ってみろ。」

と啖呵を切って号泣する。ここがもっとも印象に残るシーンだった。
 短い枚数のために、人物の描きが足りない恨みが残るものの、どの人物にフォーカスしても考えるところはたくさんある(解説の埴谷雄高のいうように秀彦の妻や大川巡査の妻、徳川さんなど女性は印象的)。ストーリー運びはほめられるものではないし、人物描写も不足なのに、いろいろ連想がはばたくという小説。こういうのを傑作というのかな。
 あと男性作家が女性の語り手に変装して物語るというのは紀貫之以来の伝統なのだけど、さて近代では成功例というのはあるのかしら。例によって網野善彦「日本の歴史をよみなおす」を使うと、かなを使うのは女性だけという時代が長かったからそれだけでジェンダーは明確であったのだが、近代だと「女性らしい」ナラティブを男性が発見しないとこのトリックはうまくいかなない。とりあえず太宰治「女生徒」、武田のこれ、大江健三郎「静かな生活」「燃え上がる緑の木」、都筑道夫の「コーコ」シリーズ、笠井潔の「矢吹駆」シリーズなどをリストアップするのだが、これを女性の作者の作と並べるとどうも変な感じがするのだよね。なんか下半身をかんじさせないというか。歌舞伎の女形をみている倒錯した官能性か、あるいは毛脛を出した女装をみているみたいな。まあこういう物言いが男権主義そのものの感想とみなされるだろうけど。