odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「「愛」のかたち・才子佳人」(新潮文庫)

 この人の著作は、高校から大学にかけて数冊まとめて読んでいて、同じ戦後派にくくられる他の作家たちとはかなり異なるところで小説をものしているのに、驚かされ魅了されていた。もともと中国文学の専門家で、文壇に登場したのが、戦争下での「司馬遷」であったのだし、僧侶でもあって「快楽」のような仏教をベースにした哲学小説も書けば、「富士」のようなドストエフスキー的饒舌哲学小説も作るという、どうにも簡単にはとらえられない化物(ケモノ)であるのだった。
 武田泰淳の短編のレビュー。ここでは、新潮日本文学42巻、講談社「われらの文学」、新潮社日本文学全集44巻の武田泰淳集を使った。並びは発表順で、ここではデビューから1950年までの作品を取り上げる。
 タイトルの文庫とは収録作品は一致しません。悪しからず。

才子佳人 1946 ・・・ 才子佳人は「才知のすぐれた男子と、美人の誉れ高い女子。理想的な男女のこと」だそうで、中国中世にはその種の物語がたくさん書かれたらしい。でも武田泰淳が書くと、ちょっとずれる。類まれな佳人が醜く無文字な男に嫁ぎ、その才を発揮するどころか、舅姑を交えてのいじめと労苦に会う。佳人の書いた詩句を見て驚愕した才子は佳人を救おうとするも、佳人いわく「私が佳人であることが、ただそのことだけが、時々刻々私を恐ろしさ悲しさで気ちがいのようにする。造物主が高い高い闇の上で笑っている憎らしい顔つきを見るような気がする」。妻子は声もなく立ち去るのみ。最後の数ページになって、それまでの「小説」の枠を突破したような奇妙な物語。

蝮のすえ 1948 ・・・ 敗戦後の上海。ニヒルな気分になって代書屋を開業した男・杉。文学とか政治とか日本人とかそれまで自分を規定したものすべてが嫌になって、たんに生きていて、それに不満がない。あるとき、若い人妻がきて代書を頼んだ。彼女は戦時中からある将校・辛島の妾になっていて、その金で病床の夫をどうにか介抱している。辛島は夫の元上司であるので、夫は直接ないもいうことができない。そろそろ帰国できそうになったとき、若妻は杉にいっしょに日本に帰ろう、夫と離婚するので一緒に暮らしてと言い出す。辛島は杉を呼び出し、フランス租界に若妻といっしょに逃げこむつもりだという。若妻が辛島の呼び出しを受けたとき、杉は「行くな」といい、下宿にあった斧を持ち出して、約束の場所を訪れる。斧を振りかざそうとしたとき、辛島はすでに別人の刃を受けて虫の息であった。帰りの病院船、夫は危篤状態。日本の島が見えたとき、若妻は辛島に刺客を送ったのは自分だと告白する。さて、蝮とは辛島かと思えば、男三人を手玉に取った若妻であるのかもと読者が疑心に囚われた途端に、小説は終わる。およそ近代小説の作法に乗らない作品。主題を夫婦の三角関係(四角関係)とみるのであれば、ライバル二人が脱落したあとの二人の行く末を書くべきであるだろうに。なるほど、これは武田版「女か虎か」であるのかもしれない。行く「すえ」は読者が考えるべきことで、突如変貌した「女性」の奥深さ、男視点からの恐ろしさに震えろということなのか。その点で名無しの若妻の本心というか内面というかは常に不明であるのに、杉、夫、辛島の男三人の本心や内面は精密に描かれる。中国戦線で敗退し、祖国が無条件全面降伏という事態になり、突然上海で難民にされた。そのなかのインテリの心情が詳しく書かれる。同じ体験をした作家の観察と自己省察によるのだろう。「国家」という重しが取れたことは彼らに「自由」をもたらすものであるが、一方で彼らが頼っていた権威と権力の喪失がニヒリズムと無気力となって表れる。この生活力のなさとうじうじした心情がどうもやりきれない。たぶん今まではここにフォーカスして読まれてきたと思うが、21世紀にはこの情けないインテリ男のことを取り上げなくてもいいのじゃないか。むしろ、「蝮」とされた名無しの女性のタフでしたたかで不可解な力に目が奪われる。
(以上を書いた後で別の本の註をみたら、「蝮のすえ」はマタイ福音書23章の引用とのこと。そこでは偽善の律法学者、パリサイ人たちを弾劾する比喩として「蝮のすえ」と呼んでいる。なので、上に書いた「蝮」の解釈はたぶん間違い。)

「愛」のかたち 1948 ・・・ 原光男、野口、町子、Mの4人は上海で知り合い、敗戦後ひきあげてきた。なので、「蝮のすえ」の続編ともいえる。とりあえずの語り手は光雄で、独身で翻訳か小説を書いて暮らしている。上海時代に知り合った町子はDVをはたらく夫に愛想をつかしていて、光雄にいいよる。その理由はよくわからない。町子の発案で温泉にいき、半年で4回という少ない情事で町子は妊娠。夫・野口に離婚を切り出すが、受け入れられずに堕胎する。町子は関西に逃げて、あとから光雄が来るという駆け落ちを計画したが、胸の病気が悪化して不発に。そのうち光雄は関心を失い、離婚できた町子はMと同棲する。Mもまた離婚した妻がいて、しかも母の病気治療のために貧困である。再び町子は光雄によりを戻そうといってくる。光雄は決心のつかないまま。恋愛が不自由な時代の時代には、愛のない結婚に失望した妻の不倫がひとつのテーマになっていた。ここでも、町子という知的でありかつ性的に放縦な女性が夫、光雄、Mの三人を翻弄している。書かれた時代であれば、このような三角四角の関係はリアリティあるものであろうが、21世紀となっては夫のDVにしろ、光雄の無責任にしろ、Mの身勝手にして、むしろ男が批判非難されるような行動をとっている。なので、光雄の観念的な「愛」の思索、想念を真面目に受け取る必要はない(1960年代の講談社「われらの文学」の篠田一士の解説はもっぱらそこにフォーカスしていて、ほとんど意味不明だった)。そこよりも、なぜか人や事物の描写が極端に少なく(どんな家に住んでどんな服を着て何を食っているのかさっぱりわからない)、男女の会話あるいは男の独り言がえんえんと書かれる「小説」の奇妙さに注目。全部で4話に分かれていて、1話と2話は光雄視点の現在と過去がかかれ、3話では上海時代の体験をもとにした「小説」が挟まれ、4話では第三者視点になって光雄も突き放される。そのうえ、Mの容貌と言動は妙に光雄に似ていて、3話の小説内小説のタイトルは「私と『私』の話」である、光雄とMの差異がないように書かれる。そうすると光雄はすなわちMであり、心身二元論の心が光雄でMが身であるという二重人格、ないし分裂した自我を想定できる。しかし、小説の中でははっきりしない(4話の第三者視点も光雄の仮構とみなせるし)。そういう話者のしかけのほうが気になった。

もの喰う女 1948 ・・・ BG(死語)の弓子に振られ気味なので、喫茶店勤務の房子とあいびき(死語)する。房子は食べる女。この短編で食べたのは、寿司、ドーナツ、豆ヘイ粒、ハッカ菓子、アイスクリーム、ラムネ、渦巻パン、カツレツ、日本酒、アイスキャンディ、とんかつ、のり巻、大福餅。深夜の帰り「おっぱいが吸いたい」とねだると房子はブラウスを外す。昭和23年のつつましい食糧事情と寂しいあいびきの模様。それより「私は、革命にも参加せず、国家や家族のために働きもせず、ただたんに少数の女たちと飲食をともにするために、金を儲け(略)、社会民衆の福利増進に何ら益なき存在であると自覚」していて、「心もとない私という個体の輪郭を、自分で探しあてる」様になっている。これは「私の文学」で述懐する心象と同じ。

海肌の匂い 1949 ・・・ 沼津から近くのS部落。長らく網元のない部落は資産を共有する「共産村」「模範村」であり、社会学者の調査対象にもなる。村から出る人はいても、入る人はいないところに、町から嫁入りしてきた市子がいる。市子を嫁にとり、23歳で家を継ぐことになった新三は不機嫌。長らく続く不漁も、村人が市子に冷たく当たる理由になる。網元の家の老人が女人禁制の船と大事な漁場に行くことにした。さいわいひさびさの大漁は漁師の顔をほころばす。しかし、市子は死にかけた魚を見つめる狂女(網元の家の老人の娘)に気をとられる。


 武田泰淳の小説は、国家の中心からはなれたところを舞台にする。上海であったり、東海の漁村だったり、北海道西部の寒村であったり。ときに都市を舞台にすることはあっても、人物は中心にあたるところ(大企業とか官庁とか集団の幹部とか)にはいない。そのうえに、人物はたいてい非社交的で、付き合いのしかたにとまどったり相手を怒らせたりして、人々の代表になることはない。たいていは余所者、余計者であり、実際に自分をそうみていて、卑屈と傲慢が入り乱れ、過度になれなれしかったり、暴力的であったり、あるいは人の顔色を窺ったり。まれに円満な人格を持つ人がいてもたいていは女性で、戦前から戦後のこの国の社会では性差別の対象であって、男性や権力者から嫌がらせを受けたりする。そういう<周縁>とか<辺境>の、余所者や余計者の視線で物語が進む。たぶんに作者の半生(とくに幼少期から10代の経験)を反映しているのだと思うが、それはほとんどの小説で一貫している。ときに中国の貴族の話があっても、それは時代を異にした<辺境>のできごと。作者が書いている<現在>から遠く離れたところのこと。
 <周縁><辺境>にいるものの余所者や余計者の視線は、<中心>や仕事・役割を持っている人たちを強烈に市販することができる。なるほど物語は、そのような中心からは縁遠いところではある。しかし、その縁遠いところから描かれる状況や背景、あるいは頻繁に小説に現れる力のあるものたちのふるまいから、読者は<中心>や仕事・役割を持っている人たちにある「問題」を見出せる。武田泰淳の方法はまずそのような場所に在ることが重要。