odd_hatchの読書ノート

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武田泰淳「ひかりごけ・海肌の匂い」(新潮文庫)

 武田泰淳の短編のレビュー。ここでは、新潮日本文学42巻、講談社「われらの文学」、新潮社日本文学全集44巻の武田泰淳集を使った。並びは発表順で、ここでは1950年代前半の作品を取り上げる。
 タイトルの文庫の収録作品とは一致しません。悪しからず。

異形の者 1950 ・・・ 「私」は社会主義の学生で暴れたために、親の命で加行僧になった。もともと大地主でもある寺の子なので、まともに修行をするつもりはない。とはいえ禁欲の集団生活はきつく、ときに抜け出しては酒を飲み、性欲の制御に苦心する(抜け出すときの服装の異様さから「異形の者」とみられる)。寺には漢訳の経を読む国粋派とサンスクリットを学ぶ国際派の争いがあり、それは加行僧にも波及。監督員が加行僧のひとりを殴った時、殴り返すか下山するかの話になる。私である柳は非暴力不服従を提案し、社会主義運動のやり方で収拾つける。しかし、ひとりで殴ることを決意している貧困な寺から送られた加行僧に恨まれ、決闘することになる。その直前に誓いを述べる際、「私」は見るだけで介入しない仏像に人間でも神でもない「そのもの」に語りかける。たくさんのテーマが現れては次のテーマが出てくると放置され、未消化なまま「終り」にした小説。決闘の結果もかかれないし(読者としてはそれをもっとも知りたいのに)。奇妙な小説。でも加行僧の集団生活の描写は魅力的。三島由紀夫金閣寺」、京極夏彦鉄鼠の檻」よりもこちらをとる。ここで書ききれなかったテーマはのちに「快楽」でさらに細かく書かれる(主人公が「柳」であるのも共通)。「直立させた陰茎で障子紙に穴をあける」という描写はこの小説の方が早い。

橋を築く 1951 ・・・ 夫が若くして亡くなったために、性欲を抑えきれない未亡人。僧侶との密通に悩む長男、理解できない次男。長男は橋造りに資材を投じる。完成のその朝、未亡人は衰弱死。通夜に来た僧侶を前にして長男のしたこと。欲望(ことに性欲)を禁じることの困難。それを要求される僧侶の苦悩。

美貌の信徒 1952 ・・・ キリスト教系の病院に勤務する看護婦。顔にやけどを持つ妊婦が入院して無事出産した。彼女は美貌の夫に厳しく我がままにあたっている。美貌の夫は、自分の浮気で妻が錯乱しているからと、妻を看護婦に押し付けていった。妻が行方不明になり、看護婦は夫のアパートにいく。そこには毛布でぐるぐる巻きにされた夫がいた。看護婦のとった行動は? 看護婦の父も狂信的な信徒であり、鞭身派のような肉体破壊行為をしていた。そのエピソードはいらないなあと思っていたら、ラストシーンにつながり、「美貌の信徒」の指し示すものが逆転する(おれには)。なんとも強烈な、マゾヒスティックな物語。

流人島にて 1953 ・・・ 江戸時代に流人の送られたH島。そこで素行の悪いものはQ島に送られた。Q島は潮の中にあり、脱出不可能なところ。いくつかの伝説が残っている。昭和の戦前でもそれは継続され、H島の感化院で不良連中はQ島の寮に軟禁され、「傭人(やとい)」と呼ばれて重労働に従事したのである。さて、1950年前後に「私」はH島からQ島に渡る。連れはQ島出身の13歳の少女一人。商用名目であるが、彼は復讐のために帰還したのである。すなわち、戦前に傭人で殺しにあった少年が漁船に救われ、都内で同じ境遇にあった老人の遺言を果たすためであった。大嶽と呼ばれる世捨て人同然の男を探し出し、彼が「私」を殺そうとした草原で、過去の犯罪と大嶽の正体を暴きだす。「私」が要求するのは、右手の親指。それはなぜか。とまあ、通俗アクション小説にありがちな復讐譚をストーリーとするのであるが、奇妙にねじれる。すなわち、「私」の関心は徐々に復讐相手から薄れて、戦後復興から取り残された島の停滞と封建的な制度に向かう。都市との交通がほぼなく、ひとは流出するばかりで、資本の投資もなく、教育水準は遅れている。およそ成長のない島であるが、昔ながらの家父長的で、因習的な権力があって、余所者(観光客ではなく住まうもの)は排除されている。とくに女性の差別や不当な扱いが目立つ。島の独裁者に反感をもってもただの一喝でしゅんとなってしまう。「私」はそれを目撃するが、なにもしない。なにも語らない。まあ、インテリによくある傍観者になっているのだ。「私」が使命を果たしてQ島と離れると、感化院の寮生たちが暴動をおこす(結果、寮は閉鎖されH島に収監されることが予想される)。Q島が1950年当時の占領下日本に酷似していると思う。閉鎖的な集団と独善的な支配者、ガス抜き程度の暴動と改革。その閉塞感がなんともうっとうしい。あと大嶽は無政府主義者に公安のスパイとして潜入して壊滅させて経歴の持ち主。その後冷遇され、Q島に流された。戦前のスパイM事件をモデルにしている。これもまたQ島と日本のアレゴリーとみるひとつの傍証。

ひかりごけ 1954 ・・・ 1944年12月翌月にかけて北海道東部のペキン岬・マッケウシ洞窟で起きた人肉食事件。戦後、その事件を教えてもらった「私」は通常の小説ではなく、読む戯曲として創作する。第1部が洞窟内部での遭難した船員たちの方言によるレーゼ・ドラマ。第2部は法廷での標準語による裁判劇。検事による告発の論理は、法に悖る・日本人の尊厳を傷つける・餓死に直面した兵士との対比。まあ国家や共同体のインサイダーを「殺してはならない」論理。西川や八蔵らの食べない論理は、その行為に感じる恥・自分の取り分をより生存可能性の高い他者に分け与えるためなど。船長の食べる(かつ他人に薦める)論理は、国家への忠・「天皇(のような超越的な権威)」からの命・生存することの価値など。これらの論理がぶつかりあう。ここではその行為の是非は議論しないが(小説の中でも結論をだしていないし)、考えるときのポイントは「殺人」と「人肉食」は区別するべきであるというにとどめる。この考えはこれで4回目くらいの再読になるが、最初に読んだときに感じたことと変わりはさほどない。さて、今回の再読で気付いたのは、作劇の技法。すなわち、「ひかりごけ」はその行為をしたものに現れるスティグマの光のほのかさを示しているのである。それはその行為をしていないものには明確にわかるのである(とされる)が、船長を弾劾する法廷でだれもがひかりごけの輪を持っているのである。この皮肉な状況で、その行為の是非を検事や裁判長のように国家や共同体の論理で裁くことを読者ができないようになるのだ。さて、冒頭、作家が洞窟に天然記念物を校長と一緒に見学したとき、「ひかりごけ」に気付かずに踏みつけてしまう。検事や裁判長の粗忽さ、自覚のなさは、冒頭の作家の行為にすでに示されているわけだ。もうひとつは、冒頭、アイヌ学会で日本人学者がアイヌに人肉食の習慣があったという発表に別の学者が猛反対したことが書かれる。そして、第1部の洞窟内のドラマの最後にはアイヌの熊祭りの音楽が流される。それによって、船長のその行為が熊祭りと類似しているかのように描かれる。当然、それは第2部ラストの船長の周りに人々が集まり、あたかも見物人がキリストを取り巻くようになるのであるが、そのイメージもまた先取りされていて、反復されているのだ。もうひとつ、船長は裁判において裁かれるのであれば自分が食ったものに裁かれたいと願う。リアルではありえないその願いも想像力の内では実現する。すなわち埴谷雄高「死霊」第7章「最後の審判」において、キリストや釈迦がまさに被告として彼らが食ったものから弾劾されたのだった(そのような食われたものも、成熟しないで死んだものに弾劾されるなどして、最終的な裁きてがどこにいるのかわからなくなるのだが)。というような周辺事項ばかりを考えた。ああ、あと開高健「最後の晩餐」にあったが、1972年の「アンデスの聖餐」事件では、その行為によって帰還したものたちは裁判をうけるどころか、国民の歓迎を受けたのだった(ネット情報と一致しないが、とりあえず開高の文章に基づく)。その違いは?


 武田泰淳の小説を読んですごいなあと思うのは、主題をまずどすんと小説の中に明示すること。個々で読んでいるのが短編から中編ばかりであるからというのもあるが、開巻数ページで、その小説の主題が現れる。とても荒っぽいやり方で持ち出される主題は、とんでもない閃光を放っている。まあ、読者である自分にはそれが問題であるとは思えないような、あるいは見逃していたような問題なのだ。そこが武田泰淳の小説の面白さ。
 でも、続けて読むと困ってしまう。主題とか問題をどんとおいて、周辺をぐるぐる回っているうちに、その主題とか問題は脇に置かれて、別の主題や問題がまたどすんと、どんと置かれて、読者の目をくらませる。そして主題とか問題の周辺をぐるぐる回っているうちに、また別の主題や問題が・・・。それにつれて、物語の筋や人物の関係が錯綜し、さまざまな主題や問題が関係をはっきりされないまま並置されて、どれが言いたいことなのか見当がつかないうちにページがどんどん進んでいく。このエントリーで上げたのものだと「異形の者」「流人島にて」が典型。さほど長くもない短編に一体いくつの問題が書かれているのやら。それは深まりを見せないまま、打ち捨てられてしまう。これが長編になると、もっと見通しがはっきりしなくなって、いったいどこを歩いているのかさっぱりわからなくなってしまう。典型は「風媒花」「森と湖のまつり」
(代表作とされる「ひかりごけ」は珍しくひとつの主題を一貫することのできた作品。でも、その取り上げ方に自分はなじめないので、好みではない。)
 作者の投げかける問題はすごく魅力的(ただし、恋愛とか差別とかは1940−50年代の時代の制約もあって、21世紀には時代遅れになっている)。でも読了後には困惑が残るというやっかいな作品ばかり。


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