odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

武田泰淳「士魂商才」(岩波現代文庫)

 武田泰淳の短編のレビュー。ここでは、新潮日本文学42巻、講談社「われらの文学」、新潮社日本文学全集44巻の武田泰淳集を使った。並びは発表順で、ここでは1950年代後半の作品を取り上げる。1960年代以降の作品はこれらに収録されていないので、割愛。
 タイトルの文庫とは収録作品は一致しません。悪しからず。

士魂商才 1957 ・・・ 一徳伝一翁なる戦前立志伝の実業家の13回忌。その生涯は、まさに高倉健の「昭和残狭伝」。あるいは日本の近代資本主義形成史。息子は養子で、西洋音楽を愛するインテリもどきで、この会に辟易している。突然、話は山梨の発電ダムに飛び、伝一の用心棒であった老人が縁あってスト破りに来る。ついでに伝一翁の家にいくと、5歳の女の子にお祖父さまは「いい人だったの悪い人だったの」と問いかけられ、「偉い人というのだろう」と哄笑する。近代の小説作法から逸脱しまくったユーモア譚。冒頭の資本主義やインテリ批判を読み取ろうとしても、後半のアクションもどきで挫折し、最後には老人といっしょに哄笑するしかない。この延長が「十三妹」になるのだろう。

誰を箱舟に残すか 1957 ・・・ 自然災害や戦争、極限状況においてだれを残すか。サンデル教授の授業に出てくる命題を50年前の映画(ひとつは「二十七人の漂流者」、もうひとつは不明)を参考にする。そうすると、実際に選抜する人間は、神(その他の上位者)の命令か、「いまのいま」「役に立つか(将来の可能性は考慮外)」で選抜することになる。その苦悩。さて話はノアの方舟にとび、次男セムの苦悩(選抜されたものがされなかったものへの同情とか憐憫とか)を考え、ノアという選抜する者の苦悩と重ねる。しかし、最後の一節でこのあたりの問題はどこかに素っ飛ばされる。これも近代の小説作法から逸脱しまくった一品。

おとなしい目撃者 1958 ・・・ もうすぐ結婚を考えているがいいだせないでいる「おとなしい」カップル。鉄道事故を目撃しデマをふれる男とすれ違う。下宿先を変えると(四畳半一部屋だって)、隣の部屋でいさかいが起きていた。事件を目撃しながら「三ザル方針(ミザル、イワザル、キカザル)」を貫く男女。結婚後の風景が荒涼たることを予測。「正義を実現することの困難」「核家族化による人心の荒涼化」「戦後世代の無関心」あたりが主題だろう。個人的にはこの時代に推理小説がはやり、純文学作家(福永武彦大岡昇平など)も書いていて、そこに武田泰淳も含まれることに驚いた。

地下室の女神 1959 ・・・ 戦前、大地主の息子である山田は非合法の新聞を読んでいたので留置された。その房には青山という女性の思想犯がいて、ほかに黒木と角の二人が部下のようになっている。青山が拷問を受けたとき、角は抗議してしたたかにぶちのめされたが、後日青山は山田に「角に用心しろ」といわれる。数年後、青山は獄死。時を同じくして角は自殺。偶然、同じ会社にいた黒木と山田はひっそりと情報を交換する。戦前の公安と特高のひどさの証言であり、お坊ちゃんの山田は「快楽」の主人公になるのだろう。

私の文学 1964 ・・・ 私小説は戦時下においてだれもが「われわれ」であったときに、その状況の批判として有効だった。しかし、描かれる「私」はいかにも底が浅いし卑屈だ。で、戦争がすんだときに自分は俎(まないた)にのった気分になり、そこで見る「私」はとても謎めき奥深い問題を持っているようだった。という文学の開始。「才子佳人」「蝮のすえ」「風媒花」の自己解説(「風媒花」は3日間のできごとの詳細な記録なのだって。気付かなかった)。


 このころになると近代小説の作法からかなり逸脱。小説の中から<中心>をなくしてしまった感じ。「主人公」がいなくなって、顔出しする人物に軽重をつけない(もちろん脇役はいるけど。「士魂商才」のストライキ中の労働者とか)。人物の来歴や問題をきっちりと書く。事件があれば、詳細に状態を説明し、関係者への影響までもを書く。そうすると、近代小説にある大状況・中状況・小状況の壁が取っ払われて、全部が並置される。通常は、特権的な主人公に特権的な事態が起きて特権的なすばらしい解決が訪れ、それに読者は感銘をうけたり、情動を揺さぶられるものなのだが。作家の小説だと、互いに関係のない事件が価値や意味の軽重を問われることなく、時間の継起とおりに記述される。読者としては、視点を向ける対象が見いだせないので、いったいどこにいくのかさっぱりわからない。そういうものだと納得できればとても面白いのだが、読み方を見つけられないととても退屈になる(だから時間をおいて再読したほうがよい)。
 あとこの作家、「現代」を見る眼が鋭くて、ぼんくらな自分のような読者が見逃してしまう時代の問題をとてもうまく摘出できる。「蝮のすえ」のような上海ののらくらインテリから、「士魂商才」の古いタイプの経営者まで、まあなんとも多彩な人物を造型して、そのうえで形而上から経営までの問題を見出せるものだ。その融通無碍ぶりは同時代の作家には見られない冴えがある。そのうえ相当な勉強家にして、頭の回転の速い人だから、解説や説明を圧縮してあっさりとまとめてしまう。文体は軽妙洒脱なので、すんなりページをめくれるものだから、作家の解説を十分吟味できないときもあったりする(これは読者の側の問題か)。
 そうした創作の行きついた先が「目まいのする散歩」なのだろうなあ。