odd_hatchの読書ノート

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武田泰淳「目まいのする散歩」(中公文庫)

 老人の書く文章の中には、衒いも気取りもなく、技巧もまったく入っていないようなのに、その言葉の選び方と話の進め方がうまくて、とても真似ができないと思わせるようなものがある。たとえば、石川淳狂風記」や金子光晴「どくろ杯」「ねむれ巴里」などがそうで、そこに武田泰淳「目まいのする散歩」が加わったのはうれしいことだった(敬愛する堀田善衛の晩年の文章はここまでは枯れていない)。この作家の文章を読むのは二十年ぶりで、「快楽」あたりの緻密でいながらぶっとい物語、「貴族の階段」の戦前女性の文体でかかれたものなどをずいぶん楽しんで読んだものだ。そしてこの人に似た作家というのが、誰も浮かばなくて、この人の存在というのはきわめて重要で、珍しいものだと思ったのだ(前言撤回。そういえば、数年前に「富士」を読んでいたのをすっかり忘れていた。このドストエフスキー風の、饒舌で筋らしい筋のない、だらだらと、しかしそのノンシャランぶりこそが読書の快楽であるというのを思い出した)。
 老人、といったけれども、このとき作家は65歳。糖尿病から併発した(らしい)脳梗塞後に作られたもの。このとき作家は筆をとるのではなくて、奥さんの武田百合子に口述筆記してもらう。この奥さんの描き方がまた秀逸で、よくもまあこれほど暴露や罵倒、あるいは妙な仕方で感心されていること(皮肉の香辛料が効いている)、そしてそのことを当の奥さんが平気な顔をして(かどうかはわからないにしても)筆記しているのがおもしろいところ。糟糠の妻とはよくいうもので、50年近くもいっしょにいると、ここに書かれているようなことなど、とりたて喧嘩をするようなものではないくらいに、二人は仲良くなっているのだ。そういう相手にはめぐり合えそうもない自分には理解を超えた出来事に他ならない。
 作家は、最初の主題を持って書き出す(話し出す)が、身体の疲れがはなはだしいのか、それとも脳がうまく働かないのか、主題は脱線し、現在と過去をいったりきたりし、ここ(現在の住みか)とかしこ(過去にすんだことのあるところ、上海などの海外も含む)を瞬時に移動している。こういう気ままな連想と飛躍はやはりこういう年をとって、誰かの批評を気に病むこともなくなった境地でもって初めて書くことのできるものなのだな。
 作家の記憶は、どうしても奥さんと一緒になったばかりの頃から、乳児が小学生になるころまでに集中する。それは戦後から昭和35年くらいまでのことで、執筆(口述筆記)当時の一九七五年からみても、古めかしく、猥雑で、汚れて、不便なころなのだが、作家も妻も子供も若かったせいか、とても生き生きとしている。おそらく時代も若く、人々の心も若かったのだろう。作家の回想の中では、苦労はしたが、ユートピアのような美しい街の出来事になっている。
2004/10/25記