odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ダシール・ハメット「マルタの鷹」(ハヤカワ文庫) スペードは事件の渦中にあって、容疑者と被害者と探偵の役割を引き受ける。客観的・合理的な探偵小説の「解決」は彼にはできない。

 共同で探偵事務所を開いているサム・スペードのもとにワンダリーと名乗る女性が訪れた。妹が駆け落ちしたので見つけてほしい、ホテルにいる駆け落ち相手を監視するのがよいという。相棒が依頼者と出ていった翌朝、射殺された相棒が見つかる。続けて駆け落ち相手も近くで射殺されていた。

 サムが、ワンダリー、変名で実はブリジット・オショーネシーと会うと、駆け落ち相手サーズビーは仕事の仲間で誰かに狙われているようだという。そこで自宅に匿うことにしたのだが、以前からサムに粉をかけていた相棒の未亡人がそこに居合わせてヒステリーを起こす。その夜には、相棒とサーズビーの殺人事件の捜査をしている警察に踏み込まれるしまつ。
 オショーネリーを別のホテルに移す手配をすると、事務所にレヴァント人(レバント Levant とは東部地中海沿岸地方の歴史的な名称、だそうだ。この本ではギリシャのパスポートを持っていたが、映画では亡命ハンガリー人のピーター・ローレが演じていた)のジョエル・カイロがやってくる。そしてオショネリーとサーズビーはコンスタチンノープルから香港経由で歴史的遺物である「マルタの鷹」を運んできたのだという。十字軍遠征のころのマルタ騎士団、それが財の限りを尽くして製造した逸品。この100年行方不明になっていたが、コンスタチンノープルにいるロシア人が所有していることがわかり、ぜひとも手に入れたいと、世界中を行脚している。サンフランシスコの都会に、このような歴史の暗黒面が突如現れるという異化効果。このころからスペードの近辺には、若い男がうろちょろしてオショーネリーにカイロを監視しているようだ。その男はキャスパー・ガットマンというもう一人「マルタの鷹」を追いかけている男に雇われているらしい。ガットマンもスペードに共闘を申し出て、「マルタの鷹」を獲得することになるが、そのころオショーネリーはまたもや行方不明になっている。スペードはガットマンにはめられて、睡眠薬をのまされた上に殴られるし、オショーネリーの電話で急いで駆け付けるとそこはただの空家であったり、彼を殺人犯としてあげたい警察に何度も脅されるしで、どうにもいいところがない。最終章でスペードが「こけにされたくない」と吐き捨ているように繰り返すのもむべなるかな。(読みながら混乱してしまったので、以上のサマリーは前後が入り組んでいるかもしれない。すみません)
 スペードはこの事件でまったくいいところがない。オショーネリーとカイロとガットマンの思惑にしてやられ、こけにされ、はめられる。現実にぶつかっては壁に跳ね返されている。こうなるのは、「マルタの鷹」事件ではスペードが事件の当事者になっているから。最初は他人の事件だったが、相棒が殺され、依頼人と深い中になり、「マルタの鷹」所有者の代理人になり、という具合。「探偵」という職業にあるけれども、実際は被害者で容疑者で関係者になっている。そこでは、スペードは「利害関係のない公平な第三者」の立場にもなれないし、カメラアイのような「客観的」な視点を持つこともできない。彼に次々と訪れる事態は、火の粉のように偶発的に訪れ、彼の立場や利害を悪化していく。まことに読者の人生に訪れる災厄はこのように気まぐれに、偶然のように起きてくるのだ。
 自宅にオショーネリーを匿ったスペードは、フリットクラフトの物語を一方的に語る。資産もちで、家族にも恵まれた中年男が突如失踪した。わずか数十ドルの所持金だけで。一年後に彼は別の街で別の仕事をして別の家族をもっていた。それに満足していたのだが、彼の目の前に鉄骨が落ちてきた。一命をとりとめたものの、フリットクラフトは人生に関する見方を変えたという。人生はでたらめな偶然にぶち当たって死んでいく、無差別に。でもその認識が彼の生活をかえたわけではなく、なんとなく適応して大きな不満も満足もなく暮らすことになる。こちらの4ページくらいの物語も印象的で、長編全体の象徴ともいえる。「ガラスの鍵」で名無しのオプの夢見のような入れ子とメタファーの構造をもっている。
 そのように、スペードは事件の渦中にあって、容疑者と被害者と探偵のすべての役割を引き受ける。となると、彼の示す解決は客観的・合理的な探偵小説の「解決」とはほど遠い。自分の利害や立場を回復するためには、コンゲームを仕掛けなければならないし、彼に好意を寄せる他人の思惑を裏切り、警察に売ることもしなければならない。あるいは、人々を遮断しなければならない。この苦悩、苦痛、苦闘。まことにスペードに降りかかった悪夢の一週間は読者の人生の総体であるのかもしれない。
 忘れてはならないポイントは、スペードの扱った「事件」は「マルタの鷹」を巡るものだけではない。こまっしゃくれて気が利きスペードを最も理解している秘書との関係に、相棒の未亡人と美貌の依頼人の女性が介入してスペードを取り合う三角や四角の関係の「事件」もあるのだ。あいにくこちらは、小説の中では完全には解決していない。スペードは解決を遅らせ、決着がつかないように行動してきたが、最後のページで落とし前をつけないといけない。この事件では、相棒の未亡人を「こけにする」ことをしていたのだが、そのつけはスペードに降りかかる。さてこのこわもての独身男性はどのような解決を示すだろうか。
 このような読み取りとは別に、「マルタの鷹」なる聖杯を争奪する男の野望や欲望を見ることが可能だし、事件の背景にある1920年代の風俗を見つけることも楽しそうだし、ジョン・ヒューストン監督の映画との比較も楽しいだろうし(映画は佳作だと思うが、ホークス監督「三つ数えろ」ほどの感銘は受けなかった)、いろいろ読み方ができそう。そのような豊饒な物語があるということでこれは稀代の傑作。ただ、この作品の主題を追及するハードボイルド小説はほかにないようなのが不思議。1930年作。


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