odd_hatchの読書ノート

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マーク・トウェイン「ちょっと面白い話」(旺文社文庫)

 この本はオリジナルがあるのではなく、訳者兼編者が作家自身の言葉や作家のエピソードを集めたもの。出典が書かれているわけではないので、読者は検証しようがないが、そこまで気にすることはない。15〜32文字くらいの警句を1ページに配置するという贅沢なレイアウトをものすごい勢いで読み進むことになる。

 マーク・トウェインが生きていた時代(1835年11月30日 - 1910年4月21日)は、おおよそに南北戦争で国内統一ができて、大西進を果たす頃。フロンティア精神と草の根民主主義(グラスルーツ・デモクラシー)の時代。個人主義自由主義が強かった時代。一方で、西進は企業の巨大化がおこり(鉄道や鉄鋼など)、大金持ちが生まれ、労働者や第1次産業従事者とすさまじい格差が開いたりしていて、セイフティネットはなく、差別が強く、ギャングが都市の政治を牛耳ることもあった時代。キリスト教モラルが社会と政治の建前になっていたが、実際にはまず運用されていない。そして富める人々はキリスト教モラルとリバタリアニズムで貧しい人やマイノリティに隷従を強いていたのだった。
 そのような時代にマーク・トウェインはユーモアでこれらに対抗する。典型例は「トム・ソーヤーの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」にあるように、社会の中心にはいないもの(子供だったり、貧しい人だったり)の視点と行動で批判的に社会や家庭などをみるというもの。正面切って正論をぶつけて論争をしかけるのではなくて、揶揄や道化や拡大や矮小化やグロテスクイメージや視点移動、などなどのユーモアの手法を使って相手の議論を脱臼させる。この本でもさまざまな人や組織やルールなどがコケにされ、有効性を無化される。たとえば、紳士淑女、教師、医者、批評家、実業家、政治家、技術者、君主、詐欺師であり、聖書であり、道徳、教訓、マナー、嫉妬、差別など。およそ彼の目につく人や仕組みでターゲットにならないものはなく、自分自身ですらバカにされてしまう。そこにはユーモアがたくさん振りかえられていて、読者としては怒るよりもクスッとするかあるいは爆笑するかであって、マーク・トウェインに攻撃を向かわせることをためらわせる。人生を深刻に見ないで、楽しいところやいいところもあるといって、読者に希望を与えられる。ここらへんは作者の人柄か。似たような警世家で警句を吐くのが得意だった人にオスカー・ワイルドがいるが、こちらは他人を怒らせて、逮捕収監されてしまった。トウェインは講演でアメリカ中を旅して、そこかしこで爆笑を起こしたのだから、違いはあきらか。
 訳者兼編者は、トウェインのことをモラリストという。そうなんだろうけど、2015年夏に読み直したら、あまりはまれなかった。社会の道徳とかルールなどをユーモアにくるんで揶揄するのだけど、トウェインは決して普遍性のある正義や道徳をもちださない。あんたはそういうけど、こっちだとこうなるよ。あんたのいいかたをこっちにもってくるとこんなおかしなことになるよ。そういうものいいになる。割と安直な相対主義で、あいての議論の根拠をくずすことに専念。彼らが自分の首長の論理で足をすくわれるのをみて笑う。トウェインのジャーナリスティックな感覚が冷笑家にさせているのだろうな。
 トウェインのやり方は、この国では1980年代のポスト・モダンの論者のやったことによく似ている。なるほどあの時代はまたこの国の権威や権力は大きくて、相対主義でやり込めたり、普遍性のある正義や道徳を持ち出すのはかっこ悪いことだった。その時代の気分にはあっていた。でも21世紀の10年代には、このシニシズムはふさわしくない。社会に余裕がなくなり、国家の機能があいまいになり、戦争がテロまで拡散しているときに、批判は相手に伝わるように直截な表現で行われる必要があるから。今は、こういう警句家・警世家ではなくて、自然主義リアリズムや戦後文学が求められている時期なんだ。
(敗戦後には戦後文学者が相対主義を強く主張したのだが、それは「絶対」を強制する全体主義軍国主義に抵抗する立場をとるためだった。1980年代のポストモダンの時代にも相対主義が強く主張されたが、それは「西洋」中心主義や形而上学に対抗するためだった。このように「絶対」を強要する力に対抗する・反抗する動機を持たない相対主義は、上のように冷笑と揚げ足取りばかりで、社会の関与と言動の責任を取らないニヒリズムシニシズムになる。)