odd_hatchの読書ノート

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マーク・トウェイン「トム・ソーヤーの冒険」(講談社文庫) 子供を抑圧しなければおのずと正義と自由を考えて実践する

 そういえば西部劇映画には子供が出てこないなあ、あのころ子供はどういう暮らしだったのだろうと思って、今まで読んでこなかった「トム・ソーヤーの冒険」を読む。完全に読む時期を失したおかげで、うきうきわくわくの時間を持てなかった。

 ミシシッピーに住むトム・ソーヤーはいたずら者。オールドミスのポリー叔母さんにはしょっちゅう怒られ、小学校の先生には定規で尻をひっぱたかれる。腹違いの弟シドニーと悪さをすることもあるが、同い年のベンや町はずれでひとり暮らしの風来坊ハックルベリー・フィンとつるむのが大好き。学校には、落ち着きがなく、騒々しく、厄介なトムに似た子供がいても、授業には耐えられない。抜け出し、ときにハックとキャンプをする。彼らは学校や家庭や教会をターゲットにしていたずらもするが、外に出るほうが楽しい。いかだで漂流、海賊ごっと、宝探し、幽霊屋敷の短剣、洞窟侵入など外のほうが楽しい。
 このあたりの情景は、子供文学では常套。ただ、ランサム「ツバメ号とアマゾン号」ではキャンプにしろ野宿にしろ大人は許可するが、細かいチェックと監視をしていた。イギリスの中産階級の子供たちは大人たちの指示や命令に忠実。でも、トムたちアメリカの子供は親の言うことを聞かない。というか親の意思をてんで無視する。そのうえ親は子供が無断の外泊をしたり、数日間家を空けてもそれほど動転しない(さすがと、水死したのではという虚報には狼狽したが)。それでいて、家庭や学校の中では子供を抑圧する。このあたりの大人のあり方が不思議。まあ、あまりに広い土地が、親や大人の目からすり抜ける場所をこどもにたくさん用意しているのだろうけど。
 そうしたうえで、注目するのは、浮浪児というか自然児というか、ハックルベリー・フィンの存在。親を持たず、家を持たず(空いている納屋や小屋をねどこにする)、金と財産を持たない。教育を受けず、労働しないし、納税もしない。彼にとっては、白人・混血・黒人の区別はなく、どんなところにも勝手にいくことができる。それは「(権力の抑圧からの)自由」である。そして権利と義務の放棄である。とことん、社会からはみ出している。似ているのはヤンソンムーミンシリーズに登場するスナフキン。でも、こちらはムーミン谷に受け入れられているが、ハックは村人からほぼ無視されている。共同体の保護からは無縁でいるわけだ。自由であるかわりの苦難。ハックがいることで、この小説の奥行きがぐんと広がった。のちのホーボーやヒッピーの先駆者(しかし、このトリックスターも失われた財宝の発見によって、ヒーローに祭り上げられる)。
 さらには、ここには恋愛があって、いじめがないことが興味深い。戦前のこの国の児童文学である佐々木邦「苦心の学友」佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」吉野源三郎「君たちはどう生きるか」では、子供の重大な問題が上級生のいじめにどのように対処するかであったが、ここにはそのような大将はいないし、そのとりまきもいない。上級と下級の違いはなくて、彼らは子供において平等である。また戦前の少年にとって恋愛や性は語られないものであった(かわりに今東光悪太郎」のように、先輩などに指導されるものであった)。こちらでは10歳くらいのトムはベッキーに夢中になり、つんつんとそっけなくあしらわれながらも危機を一緒に克服することで結ばれる。ここにも男女の平等があるとみてよいのだろう。
 重要なのは、トムら子供らが正義の問題に直面することだ。彼らは宝探しのキャンプの最中に、殺人事件を目撃する。真犯人は無実の老人に罪を着せ、その通りに検視と裁判が進行する。さてトムら子供たちは、真犯人の復讐を恐れ、決して証言しないと誓いを立てる。しかし、裁判が進行し、無実の老人が憔悴することが耐え難くなる。社会の正義を実現するのか、個人の安全を優先するのか、トムは迷う。悩む。苦しむ。それは数か月続く。そのうえで、トムは自分で考え、選択し、実行する。ここでは正義が何かかと問われる。感情や常識で図られるものではない。功利でもない。教育で養った徳や社会や世界で共通する善と照らし合わせることで、正義とそれに基づく行動を決定しているのだ。この心と考えの移り変わりはしっかり読み取ろう。この小説の表層はいたずら者の成功・出世譚であるが、正義のありかたを主題にしているのだ。
(上記の佐々木邦「苦心の学友」、佐藤紅緑「ああ玉杯に花うけて」や吉野源三郎君たちはどう生きるか」でも、子供らは正義の問題に直面するが、この国の子供らが照らし合わせるのは社会とか世界ではなく、同級生や家庭など狭いところの共通善。同級生や家庭からは見えてこない人々への配慮が欠けやすい正義では普遍性を持たないと危惧してしまう。実際に、15年戦争でこの国が喧伝した「正義」は国家の外に追いやられた人たちには通じなかった。まあ。トム・ソーヤーが照合したアメリカの「正義」も時と所によっては通じないこともあったのではある。)
 1875年初出。今回読んだのは高杉一郎役による講談社文庫。ほかの文庫のほうが入手しやすいが、初出時の挿絵が収録されているので選んだ。雰囲気を読み取る参考になった。そういえば「ララミー牧場」「大草原の小さな家」などのテレビドラマでは西部劇時代の子供が描かれていたな。


 別の翻訳では以下のようなものがある。