odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

エドワード・H・カー「歴史とは何か」(岩波新書)

 「歴史とは何か」の問いに真正直にこたえようとすると途方に暮れる。概念や指示されているもの・ことを明らかにするのは素人には困難だからだ。そこで、問いを変える。「歴史でないとは何か」「歴史を捏造するとは何か」。非歴史を俎上に挙げることによって、歴史がぼんやりとでも浮かび上がってくるかもしれない。そこを意識して読み直す。

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1 歴史家と事実 ・・・ 歴史を記述するようになったのは古代からあるが、学問研究の対象になったのは18世紀ころから。19世紀以降は二つの潮流があって、事実重視(過去を大事にする)と理論重視(現在を大事にする)。極端はいけないのであって、事実と歴史家(歴史を考える人、くらいの広義でいい)の相互作用、不断の対話が必要。
(歴史捏造者や極右などをみると、極端な事実重視(一次資料がないと事実を認めない)か極端な懐疑主義(歴史は権力によって書き換えられるあいまいなもの)か極端なイデオロギーか、になる。たいていは同居していて、相手によって言い換える。歴史家が二次・三次資料から事実を積み上げていくやりかたとか、主張に同意や積上げをする方法を無視している。)
(事実に関しては、科学論にある観察者のバイアスによる揺れ動きや量子力学の不確定性などを考慮してみるのもいいかもしれない。クーンのパラダイム論を歴史哲学に使えるかと思ったが、経済学ほどの強固な学問の規範はなさそうなので、適用できそうにないな。)

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2 社会と個人 ・・・ 歴史の原動力は個人か社会(集団、数)か。そういう二項対立は不毛。
(これは通俗歴史解説が陥りやすい誤り。戦国時代の「英雄」の心理や感情にフォーカスするとか、ある階層が歴史を動かすとするとか。これは19世紀の歴史の方法。もうひとつ、カーが意識しているのは、1930年代が偉人(ヒトラースターリンなど)の時代であり、同時にファシズムとボルシェヴィズムの集団支配の時代であった。どちらにも社会を動かす力があったのだが、社会も歴史家も個人と集団のいずれかに注目するような見方をしていた。そうではない、とカーはいう。)
(個人か集団かという問いは、アーレントの全体主義批判を使って検討するとよいと思う。)
(講義のあった1961年は冷戦のさなか。西洋の進歩史観ソ連東欧の史的唯物論がそれぞれ強く主張され張り合っていた時期。そこにおいてどちらにも与しないカーの発言はとても政治的なメッセージになっている。とはいえ、ロシア革命研究者としてのカーの立場は本書でも他の書でもよくわからない。)

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3 歴史と科学と道徳 ・・・ この章は書かれていない背景を補足しないとわかりにくい。歴史は古代から書かれてきたが、歴史学ができたのは19世紀。いくつかの潮流があって、ひとつは英雄の交代や権力の変遷をしてとらえる(古代の史書)。二つ目は歴史法則に乗っ取っているという考え(ヘーゲルマルクス、あるいはニュートンダーウィン)。三つめは古典力学や天文力学に範をとるような論理実証主義進歩史観。いずれもNGというのがカーの考え。最初のは、現在の道徳や善悪、あるいは神などを判断基準して歴史の裁判官になるのはよくない。二つ目のは、19世紀末の科学(特に物理学)の危機と量子力学などを参考にすると、歴史は法則通りに進むとは言えず、予言や教訓をひきだせない。三つ目のは、決定論や宿命論になってしまう。「進歩」概念もあいまいだし、進歩を持ち出すと現状肯定・現状維持の評価をくだしてしまいがち。これらとは別に、スノー「二つの文化と科学革命」のように自然科学と社会科学の断絶・通訳不可能性も指摘されているが、克服は可能という。
(初出の1961年というと、当時の歴史の見方を代表するのは、俗流歴史観論理実証主義者(とくにポパー)、マルクス主義(当時はソ連が大国で、共産党がどの国でも優勢)。またバターフィールドの科学史歴史学に刺激を与えていた。ポパーマルクス主義、バターフィールド、スノーらの影響が弱くなっていたのちの時代に読むと、ここは陳腐に思えるかもしれない。読み取れるのは、イデオロギーや先入観、結論から歴史をみるなというメッセージくらいかな。)
(あと気になったのは「主観と客観は分離しがたい」と訳しているところ。これは歴史を調べる「主体subject」と対象である「客体object」と訳すべきじゃない。ポパー、バターフィールド、スノーの翻訳がなかった時代だったから訳者も大変だったろうが、直したほうがいいと思う。)

4 歴史における因果関係 ・・・ 当時の歴史学でよくでてくる決定論と偶然の重視にくぎを刺す。因果を決定する超越論的存在を想定する必要はなし、偶然を重視すると一般化できなくなる。事件の原因を複数上げるのは結構だが、歴史家は原因群に優劣や関連を示して合理的な解釈や説明をつけなければならない(そこまでやらない俺には耳が痛い言葉)。
ポパーの「歴主主義の貧困」の話題がでてくる。ポパーヘーゲルマルクスの歴史法則主義を批判したのだが、カーはなぜかポパーに冷淡。「通俗的な書」とにべもない。ポパーソ連政権に批判的であったから、なのかしら。そういう背景が書かれていないので、隔靴痛痒の感。)
<参考エントリー> 科学哲学での因果関係の扱い
森田邦久「科学哲学講義」(ちくま新書) 
(章のタイトルをみたとき、因果関係と相関関係の違いを説明するかと思ったがそうではなかった。ニセ科学歴史修正主義を相手にするとき、彼らは因果と相関を混乱して使っているので、区別は重要。)

5 進歩としての歴史 ・・・ 歴史をみるとき、ミスティシズム(歴史から神や超越者の意図を探る)やシニシズム(歴史は本質的に無価値なのでどんな意味でも付与できる)はNG。あわせて、進歩するという目的論的世界観(たとえばトインビー。もちろんヘーゲルマルクスも)はダメ。何かのゴールに到達するというのは、歴史を見ても、学問においても不毛で事実でない。歴史は非連続の過程で、重要性の正しい基準で客観性にたどり着く。あと事実と価値を混同してはならない。
(カーはこれらの手続きで科学的で客観的な歴史を描くことができ、評価は未来の人が行うという。それだけでは不十分なのではないかというのが感想。「科学的」や「客観」もどう評価するかという視点がないので。それでは、相対主義や歴史捏造に対抗できないのではないか。そうすると俺は「人権の拡大、公正の実現」が評価軸になると思う。くわえて柄谷行人の「生れざる他者への倫理的義務」と重ねることができる。)
柄谷行人「倫理21」(平凡社)-1 2000年
柄谷行人「倫理21」(平凡社)-2 2000年

6 広がる地平線 ・・・ 近代の歴史学の泰斗、アダム・スミス-ヘーゲル-マルクスの系譜。大きな影響を与えたフロイト(あれ?ニーチェは)。1961年の歴史学の現状。
(21世紀に読むと、すかすかな内容の章。残念な気分になるのは、当時の歴史学に挑戦するような兆候を見出していないこと。すなわち、アナール派レヴィ=ストロースらの民族学、科学論(科学革命に関する議論)などが無視されていること。そのうえ、すぐ前にあった(あるいは現在進行中の)全体主義大衆社会に対する認識が不足していること。カーは自分をオプティミストというのだが、それは歴史学の方法に対する危機に鈍感であったからと思うのだ。)

 

 大学に入学する直前の3月、18歳で読んだのだが、よくわからなかった。その理由は40年を経ての再読でわかった。これは一般啓蒙向けの講演らしいのだが、その内容は1961年当時の歴史学の批判であった。なので、18世紀以来の西洋思想史、歴史哲学などを知っていることが前提。ヘーゲルマルクス、ブルクハルト、ランケらの19世紀の思想家に加え、ポパー、バターフィールド、マイネッケなどの当時現存する歴史家も知らないといけない。そこはちょっと敷居の高さがある。
 内容も問題がある。取り上げられる事件、できごとはほぼヨーロッパに限られる。それも西ヨーロッパ。カーのテーマであるロシア革命は頻出するが(レーニントロツキースターリンは説明なしで登場)、その時代以外のロシアや周辺国は登場しない。アメリカの独立戦争もない。アジアは20世紀の日本の進出に少しの言及がある(ニーダム「中国の科学と文明」が詳述される)。こう見るとカーにとっての歴史はヨーロッパのもので、それ以外の地域はほぼ無視される。アジアやアフリカに言及があるのは、ヨーロッパに影響があったからという理由で、自立的な歴史と歴史記述は出てこない。講演の頃に起きている「第三世界」の動きにも目は向かない。どうしてもヨーロッパの特殊性を認識できず、西洋中心主義からぬけられないのだね。
 カーは理性の拡大と濫用を言うのだが、その理性そのものに対する懐疑がこの時代にはあった。俺の念頭にあるのはフーコーレヴィ=ストロースらの著作。少し前にはホルクハイマー/アドルノの「啓蒙の弁証法」もあった。理性に対する懐疑を持つのは非西洋の歴史や文化を尊重することになるのだ。カーの本にはそういう視点がないので、歴史の記述を判定するのは未来の人であるとしたときに、現在のわれわれの責務があいまいになる。科学的・客観的は未来の人に対するプレゼントとしては十分ではないでしょう。そうすると、正義や倫理が歴史学に必要に思う。
 講演は1961年。それまでに科学史ではこういう歴史アプローチが生まれていた。
ハーバート・バターフィールド「近代科学の誕生 上」(講談社学術文庫) 1957年
ハーバート・バターフィールド「近代科学の誕生 下」(講談社学術文庫) 1957年
トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術文庫)-1 1957年
トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術文庫)-2 1957年
科学史という歴史記述の辺境では変化、新しいパラダイムが生まれるきっかけがあった。カーはどうも新しい潮流には気が向いていなかったよう。なので、本書にでてくる科学的・客観的という方針も十分に検討されていない。すでにロシア革命研究で大家と目されているのがネックになっているのではないか。という具合に、瑕疵が目に付いて記憶に残らない。
 本書からよく引用されるのは、

「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。」
「歴史上の事実を決定する際に必然的に解釈が働くからといって、また、現存のどの解釈も完全に客観的ではないからといって、どの解釈も甲乙がないとか、歴史上の事実はそもそも客観的解釈の手に負えるものではないとかいうことにはなりません。」
「歴史を解釈したいという欲求は非常に根深いものでありますから、過去に対してある建設的な見解を持っておりませんと、私たちはミスティシズムかシニシズムかに陥ってしまいます。」

などだが、この言い方はあいまいでもうろうとしている。著者の主張ははっきりしていない。一般には名著とされているのだがねえ。
加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」(朝日出版社新潮文庫)では、本書を「暗い本」と評価してました。)

 

 最初にあげた「歴史でないとは何か」「歴史を捏造するとは何か」という問題意識で本書を読んだ記録がこちら。参考になります。見てください。
200826 NO HATE TV 第93回「歴史とは何か」

www.youtube.com


ツダり