odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-2 「政治的人間」「性的人間」「犯罪的人間」のいずれでもある未成年は社会の規範を逸脱しテロルに傾斜する。裏「遅れてきた青年」。

2017/02/06 大江健三郎「セヴンティーン」「政治少年死す」-1 1961年の続き。



 純粋天皇と直接コンタクトする、その回路を持っている唯一の人間。その確信は「おれ」の死や無の恐怖を克服できる(つもりになるだけ)。そこからテロルの実行にはさらにいくつかの階梯を乗り越えなければならない。「右」を批判する作家の脅迫に失敗(怯える作家の逆襲にあう)し、「鎧のような制服」の威力は家族やエリート校のクラスメイトやトルコ風呂(マッサージのみ)の若い女性には通用しても、ある種の人間には通用しなかった。一方、その作家のみじめさ(アルコール耽溺、麻薬喫飲、同性愛など)をみて、大衆や生活への嫌悪が増加する。再び自己嫌悪と疑惑に囚われるも、そこで再度啓示を受ける。それが「日本を毒するものをおれの命をかけて殺す」であり、15年まえの敗戦の日から2週間後に自決した17歳と自分を同一化する根拠になる。まあ、ここで再び自己の特権性とか不死性とかを回復するわけで、自分を「暗殺者的人間」と規定する。そこまでの回転を知ったあとは、「あれ」にむけて疾走するしかない。
 こうして獲得した特権意識や不死意識も、事後に捕らえられて、鑑別所の中で凡庸な人々の中に入ることで、もろく崩れる。生き延びることそれ自身が、特権や不死性の反対物になって、死ねない日常が「おれ」に自分の凡庸さを突き付け、桎梏になるのだね。
 このようなテロルへの傾斜は、たぶん実際のテロリストや犯罪者とは無縁ではないかしら。この小説が自分の心象を現したものだということを誰かが言ったときいたことはないし、自分の知っている「左」のテロリストや犯罪者の告発との類似はほとんどなさそう(それほど調査研究しているわけではありません。個人の印象です)。小説を書くにあたって何か取材をしたということも聞いていない/読んでいない。なので、この小説に描かれる若いテロリストの肖像は著者の想像力に由来する。全体の描写は迫真的で、戦慄すら覚えるもので、著者(当時26歳)の想像力はすさまじい。


 短編ふたつを続けて読むと、この2作は同時期に連載していた長編「遅れてきた青年」の対になる小説であることがわかる。長編では、村で排除されてきた少年が高学歴のエリートとなって「遅れてきた」自分を上昇させようとして挫折するのであるが、こちらでは高校1年までは平凡な家庭のエリートと育ってきたのが同類の中で挫折し自己回復のために「遅れてきた」自分を発見してテロルに向かうまで。ふたりとも「政治的人間」「性的人間」「犯罪的人間」を内包していて、社会から逸脱する言動をとり、社会や日常を激しく批判しながら破滅していく。「遅れてきた青年」の「わたし」は政治と性と犯罪が統合されず分裂のすえに麻薬やアルコール耽溺で自己懲罰に至るのであるが、「セブンティーン」の「おれ」は政治と性と犯罪が統合されて至福の時を体験するのである。国会前や広島集会で「左」に暴力をふるうとき、彼の持つこん棒は怒張したファロスであるし、雨に打たれながらオルガスムスに至るのである。その一方では自己の無という恐ろしい深淵もあった。自分の特権や不死性が剥奪されて、凡庸な人間に立ち戻ることに耐えがたいほどの苦痛を感じる。「おれ」の周囲には理不尽な凡庸さが充満し、他者への憎悪が鏡に跳ね返されて自分へ嘲笑になり、至福のオルガスムスはしなびたペニスのインポテンツになり替わる。もはや憎悪している社会から「道化」にしかおもわれないし、「スケープゴート」のような出来事も起こらない。社会や大衆の期待を裏切るには、自死しか残されていないというのが「おれ」の判断となるのか。そのアクションは「政治的人間」「性的人間」「犯罪者的人間」を統合するひとつの人間像であるのだろうが、もはや描写するほどの時間を有していない(当然ながら誇りを持った「暗殺者的人間」とは全く別の人間である)。すべての人間に訪れるものが「おれ」に訪れたとき、純粋天皇の幻を見、最高のオルガスムスを獲得する。まあ、このような人間にはなりえない読者のひとりである俺からすると、この「おれ」の幻想や幻聴は欺瞞におもえるのではあるが。
 さて、同時連載の長編との関連を見出せるのだが、さらにさまざまな作品との関連もみてもよいのではないか。たとえば、ドストエフスキーの「悪霊」。「おれ」をスタヴローギンやキリーロフになぞらえるのは困難にしても、「政治少年死す」の最後の一行が「悪霊」の最後の一行に由来するとみたいもの。また、全編17歳の少年のモノローグで貫き、性と政治をかたるというのは三島由紀夫仮面の告白」。同じく「政治少年死す」の最後の数ページは「豊饒の海」の最後の数ページに対応するのではないか(「豊饒の海」は未読なので、妄想だろうが)。