odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「ベニスに死す」(岩波文庫)-3 アッシェンバッハは美に見放されドイツ精神は死に向かう

2023/05/16 トーマス・マン「ベニスに死す」(岩波文庫)-2 老人と少年がアッシェンバッハを天国のような地獄に誘う 1913年の続き

 

第4章 ・・・ 滞留を決めてから天気はよくなり、アッシェンバッハの気分も華やぐ。南国の水浴生活を楽しむ(20世紀になってからドイツでヌーディズムの健康運動が流行ったのを思い出すこと)。タッジオを見る楽しみが許されるときでもあった。濃紺の短い水夫式外套とそろいのふちなし帽を身に付けたタッジオはギリシャの神であるナルシスのようであった。彼はタッジオに関する散文を書き、傑作となったのを確信する。

「わたしはお前を愛している」。

(この短い章で、アッシェンバッハとベニスに幸福と美が訪れた。けだるい気分と明るい陽光の日々。アッシェンバッハがタッジオを描写するとき、まるで愛撫するような官能的な筆致になる。参考はナボコフ「ロリータ」、谷崎潤一郎「犯罪小説集」。)

第5章 ・・・ 観光地が変わってきた。ドイツ人観光客がいつの間にかいなくなり、異様な芳香が漂うようになりそれは殺菌剤や酒石酸のにおいにかわった。カキや貝類を食べるな・運河の水を飲むなという警察の指示が出まわる。地元の商店主がいうにはインドのコレラが蔓延し、中東を通じて地中海とロシアにやってきた(この経路は黄禍論に重なりそう)。当局は隠蔽に精を出し、人々は道徳的退廃を示す(ヘイトクライムも起きる)。アッシェンバッハは伝染病の到来を知っていたが、「だまっていよう」と決める。そうすればポーランドの一家はとどまるからである(保守は現状維持を望み、災厄を拡大する)。アッシェンバッハはタッジオの後を追い付け回し、彼を覗き見て楽しんでいたのだった(すなわち伝染病の病原菌と同じような挙動をしているのだ)。ある晩アッシェンバッハは奇怪な夢を見る。原始部族のいけにえの踊り(小説発表年の1913年はストラヴィンスキー春の祭典」初演と同じ年)。いけにえにされているのはアッシェンバッハ自身であるとわかったところで目が覚める。アッシェンバッハは自分の老いがいやだった(第4章の「青春」を続けるにはアッシェンバッハの「パワー」は足りない。生命力の枯渇はまずベニスの熱風シロッコとして現れ、続いて伝染病の到来となる。悪魔の取引でアッシェンバッハは美を愛でられるかわりに、自分とベニスの生命を差し出すことになったのだ)。理髪店に行き髪を染めパーマを当ててもらう。そのときにはなまあたたかい暴風が吹き、ふはいぶつのにおいがベニスの町を覆っていた(映画では伝染病除けの消毒剤の霧が町を満たしていた)。アッシェンバッハと同じく、ベニスも衰弱してしまった。暑さに耐えかねてアッシェンバッハは街角で熟しすぎたやわらかなイチゴを買って食べる(ときちんと伏線を貼る作者の技)。とうとうポーランドの一家も出発することになる。一家が船に乗る前に、タッジオは少年同士のけんかで負ける。それまで表情や感情を表に出さなかったタッジオは負けた悔しさでふてくされる。タッジオの美と均斉はここで破壊された。感情を持つようになったら天使であることはできない。タッジオがクソガキであることを示したところで、アッシェンバッハがタッジオにみていた理想は意味を失う。タッジオの美はそれ自身の変化でアッシェンバッハを見捨てた。生命力が枯渇し、希望を失ったアッシェンバッハは若作りの仮装をつけたまま息絶えるしかない。

 

 象徴的にまとめると、ドイツの疲れて老いた「精神」はドイツを脱出し、イタリアで健康な肉体を発見することで回生を試みた。でも老いた精神は若い肉体に接触することができない。そのうえ非ヨーロッパから侵入してきた病原菌(非人間)がヨーロッパに侵入して汚染している。そのためにヨーロッパは精神も肉体も衰弱する。こうしてヨーロッパは死を迎えようとしている。こういう暗い光景をみることになるのだ。ベニスの最盛期は15-16世紀の地中海貿易の時期だとすると、すでにベニスは世界から取り残され没落しつつある都市なのだ(象徴的にも物理的にも)。ヨーロッパには未来はないという展望しかない。1913年初出のこの短編は翌年からの第一次世界大戦を予言したかのような暗さがある。
 そういえば、19世紀後半のヨーロッパのクラシック音楽は、いま-ここを描くよりも、異郷や神話を題材にし、民族音楽のメロディやリズムを取り込んで書いていた。アッシェンバッハより前の人たちは若い肉体である異郷や神話と接触して融合することができたが、20世紀初頭のアッシェンバッハに象徴されるドイツ精神はもはや接触も融合もできなくなっていたのだ。アッシェンバッハの疲労やあきらめはここに由来する。若いドイツの芸術家は、シェーンベルクやベルクのように形式をとことん突き詰める実験をやっていた(WW1の後はアメリカにわたりロマン派音楽の技術を大衆芸術、とくに映画音楽で披露する)。
 ホテル・エキセルシオールにはヨーロッパ中の人が集まっている。アフリカ、中東、インド、アジアの人が労働者になっていたと思うが、貴族や知的エリートの目には入らない。帝国主義植民地主義の象徴なのだ。客としてここにいないのはアメリカ人。若い彼らはヨーロッパにまだ来ていない。WW1が終わると戦災がなく生産力に優れたアメリカの大衆文化が来て、アドルノらは嫌悪するようになる。
 「ベニスに死す」の約20年後に、トーマス・マンは北イタリアの避暑地を訪問する短編を書く。 トーマス・マン「マリオと魔術師」(角川文庫)1930年。そこには健康な肉体も高貴な精神もなく、1913年には観光客向けのショーだった大道芸が小屋を作ってたくさんの観客を集めていた。WW1のあと市民社会が解体して大衆社会になっていた。そこには観客をけむに巻き、いかがわしいことを吹き込む「魔術師」がいる。大衆の政治参加はポピュリズムになり、よういにファシズムに転化するのだった。
「ベニスに死す」から20年後のアガサ・クリスティ「オリエント急行の殺人」(ハヤカワ文庫)1934年になると、アメリカ人は無視できない存在感をもつようになった。
<参考エントリー> 戦間期に来たアメリカ人がヨーロッパをどう見たかの参考例
アーネスト・ヘミングウェイ「移動祝祭日」(岩波書店)
アーネスト・ヘミングウェイ「危険な夏」(角川文庫)


 前回は構成や象徴に焦点を当てた読書だったので、今回は細部をなめるように読んでみた。トーマス・マンは小説の技巧家。目のつまった重厚な文章でありながら官能的であり、論理的でありながら感情を揺さぶり、アッシェンバッハの内面ばかりを追っているかと思えば全体状況を簡潔にまとめ、アッシェバッハの内面がベニスの町の変化と符合している象徴をそこかしこに伏線をはる。これほどの書き手は他に類を見ないほど(そりゃ探偵小説ほどの緊密さはないけどさ)。傍から見ればアッシェンバッハはタッジオをストーキングする危険なおっさんなのだが、マンの筆にかかれば「精神と芸術」が選んだ崇高な人物による聖杯探索の物語になってしまう。そのマジックぶりを堪能しよう。前のエントリーにも書いたように、「ベニスに死す」はのちに「ファウスト博士」という大作につながる。マンの愛好家は両者を読み比べたほうがよい。

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 ヴィスコンティの映画が有名だが、自分は好きではない。細部に凝っているなあとは思うが、アッシェンバッハの行動に共感することができない。あと映画でタッジオ役をした子役(1955年生まれ)が撮影中に監督にセクハラやパワハラを受けたり、あまりに有名になってしまったために人生をうまく生きられていなかったりと周辺状況がひどすぎるのも、好感を持てない理由だ。

 

 その映画ではマーラー交響曲第5番第4楽章アダージェットが全編通して流れる。そこで再読の間、手持ちのアダージェット約20種の録音を聴いた。この作品はテンポが極端になりやすく、最短で7分強(ウィレム・メンゲルベルグ指揮コンセルトヘボウ管弦楽団)、最長で15分強(ヘルマン・シェルヘン指揮フィラデルフィア管弦楽団)と二倍近く違う。両者を続けて聞くとほとんど別の曲のよう。もっとも有名な演奏はカラヤンベルリンフィルハーモニー管弦楽団のもの。小説にふさわしいのは、官能的で退廃漂うワルターウィーンフィルの戦前演奏(8分弱)。戦後のもっとテンポのゆっくりな演奏は静謐のメッセージが強くなってしまう。

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 普通と違う演奏では、チェロとハープの合奏版、オルガン編曲版、無伴奏合唱版などがある。好事家向け。
 あとアダージェットの陶酔的なメロディは、次の楽章でパロディになって再現する。陶酔音楽の余韻をぶち壊すマーラーの意地悪さを楽しまないといけないので、単独で聞くことはせず、必ず次の楽章も聞くようにしよう。
 アッシェンバッハの美への傾倒はヴィスコンティの映画「ベニスに死す」1971年で美しく描かれた。その3年後の1974年に、ケン・ラッセルが映画「マーラー」でパロディにする。停車場でセーラー服を着た少年が優美に体を動かすのを、アッシェンバッハのような中年紳士が覗き見している。目が合いそうになって即座にそらすが、すぐに少年の姿を目で追いかける。これを電車の車内にいるマーラーが眺めているというシーン。もちろんバックには交響曲第5番のアダージェットが流れている。マーラーの仕掛けを映像でも補強するという秀逸なシーンだった。

(シーンの頭出し済み)

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柴田南雄グスタフ・マーラー岩波新書

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 イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンがオペラにしている。

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 別の公演がブルーレイ化されている。