2017/03/01 ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル 上」(角川文庫) 1862年
2017/02/28 ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル 下」(角川文庫)-1 1862年 の続き。
バリケード蜂起の時、人々は日常を越えた祝祭と緊張の瞬間を生きる。平穏であるが変化の乏しい日常は突如さまざまな運動のぶつかり合いで沸騰し、生死をかけるにたる至高な時間になる。蜂起の時間に、ときに人は思いがけない変貌を遂げ、英雄的な高みに登ることになる。ひとりがマブーフ老人で、博物学図鑑を出版しようという意欲にあふれるものの、満足な出来にするために資金を湯水のように使い、しかし一向に売れず、資産を食いつぶしている。老年に至った時には貧困の極地。食い物も満足にとれない。老いさらばえた姿は人々の嘲笑の対象になる。その彼が、バリケードの中にいたときに上記のような英雄的なふるまいをする。あるいはガブローシュ少年。バリケードの銃撃戦の止んだとき、路上の死傷者の間を歩き回り、バリケードの武装市民のために銃弾を集める。まるでリンゴかブドウを摘むかのように。バスケットいっぱいになった時、少年は共和主義を賛美する歌を歌い、銃弾に撃たれる。このような日常を至上に高める一瞬があるのだ。
では、バリケードを築くことでどのような社会を構想しているのか。マリウスの所属していた「ABCの仲間」が演説しているので、聞いてみることに。しよう。まず、個人がいる。個人は主権を持っていて、それが自由である。その主権が集まることによって国家になる。複数の主権の集まりでは権利は失われることはないが、社会の権利のために個人の主権は多少制限されるのであるが、みな同じ量で制限されているのであって、それが平等である。こうして個人の集まりである共同の権利は個人を守るために全員によって保護されるのであり、それが友愛。そのような主権の交差する場所が社会である。平等が基礎となるのであるが、単に誰もが同じ高さにとどまることではない。能力を高める機会をもっていること。そのための無償の義務教育、全員の選挙権、信仰の自由。これらの実現によって、権力の支配、侵略戦争、国家間の対立が解消される。現在はやるせない時代であるが、人間の解放、上昇の運動は止まらない。その象徴がバリケード。
もちろんこの共和制の考えは1862年の小説発表当時の最先端ではあるが、21世紀の今日には言葉不足のところがある。たとえば、自由や平等の保証される個人には、女性や外国人、ときには障害者や前科人などが入らないとか、経済政策や社会保障制度が漏れているとか。そういう欠点はこれからのわれわれがおぎなえばよいのであって、ここでユーゴ―の限界や制約をことさら問題にすることはあるまい。
もどると、このような社会の成立(国家ではないことに注意。国家はここでは手段であって目的ではない)は命を懸けて行うだけの価値、人間的な上昇や解放を実現する。1832年にしろ、1848年2月革命の挫折のあとの十数年にしろ、フランスの社会はこの理想とは逆であった。そこにこの小説のもたらす共和主義の光はまばゆい。
(という感想はたぶんに笠井潔「テロルの現象学」に影響を受けている。若い時にはこの生の輝きとか至高体験などに共感をもっていたが、老年の入り口になると蜂起はリスクが高いしコストがかかるしでいいことはない。ふだんの生活で政治や経済を良くしましょう。バリケードの時間が経験するに足るのは、その時間の至高性のみにあり、バリケードを築く思想や主張とは関係が薄いようだし。)
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