odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トーマス・マン「短編集」(岩波文庫)-1「道化者」「小フリイデマン氏」「衣装戸棚」 20代前半の短編

 トーマス・マン(1875年6月6日 - 1955年8月12日)の短編集。短編は若いころに書かれたものが多い。1915年以降の短編で読んだのは、「混乱と雅な悩み(1925)」「マリオと魔術師(1930)」掟(1944)」くらい。どれも長編の準備のためのもの、あるいは長編の一部を切り出したものとみえる。
 今回は青空文庫に収録された岩波文庫の翻訳をwikiにある発表順に読む。短編集はとうに手放したので、どういう並びになっているかは確認できない。

 

幸福への意志 1896 ・・・ 語り手「僕」の友人で心臓が悪いパオロの話。男爵の娘アダに求婚したが、父親に反対された。「酒も煙草も恋も禁じられてしまった」パオロは世界中を放浪し、衰弱しながら娘のことを思う(世紀末なので言動に現さない)。5年後父の許しがでて結婚した翌朝、パオロは冷たくなる。その表情には「勝利のおごそかな強いまじめさが認められた」。
(「ファウスト博士」の遥かな先駆。マンの小説では、不治の病を持つことは聖性を持つ選ばれた人間であることの証。)

幻滅 1896 ・・・ ヴェニスで余暇を楽しむ「僕」に30~50代のドイツ人がなれなれしく近寄る。私は人生の幸福と思いも寄らぬほどおそろしい苦悩の幻滅が訪れることを期待している。死を体験するときも「結局これがどうしたというのだ」。
(「ヴェニスに死す」の少年タッジオがアッシェンバッハの繰り言を聴かされている感じ。幸福を夢想しながら幻滅して破滅する人間はマンの小説に繰り返し出てくる。幻滅しているから、何もしない。みているだけ。)

道化者 1897 ・・・ 富裕な家に生まれたのらくらもの。20歳に父と母を亡くして遺産をもらう。何もしないで暮らせるので、何もしないでいたら退屈で自堕落になる。あるとき歌劇場で娘さんを見て興味を持ったのだが、彼女につれなくされ、数日後結婚を発表したのをみる。自尊心が高いが克己できない男が妄想を働かせて、勝手に社会にうらみつらみをもつ。それを冷静に書く。「詐欺師フェリークス・クルルの告白」に入っていてもよい挿話。ドスト氏「地下室の手記」「おとなしい女」、ユーゴー死刑囚最後の日」、ディケンズ「狂人の手記@短編集」、ポー「黒猫」「天邪鬼」の語り手の同類。

小フリイデマン氏 1898 ・・・ 生まれたときの事故で不具になった青年小フリイデマン氏。とりあえず商人として不自由はないが、恋愛とは無縁。自閉的な傾向もあって孤独な生活を送る。ある時町の歌劇場で「ロオエングリン(ママ)」を見たとき、話題の婦人フォン・リンリンゲン夫人が秋波を送ってきた。フリーデマンはいそいそと夫人の家を訪問し、彼女に愛を告げる。夫人の答えは・・・。ドスト氏「白夜」と同じ物語でありながら、ドイツの青年の悲恋物語は上流階級で起こる。なので舞台はペテルブルグの路上ではなく、歌劇場や大邸宅や宏大な庭園。妄想癖のある孤独な青年は、夢想しているときは幸福な気分になるのに(「幸福への意志」など)、いずれ破滅するだろうと予感する。これはドイツの後期ロマン派の気分そのもの。なので、ドスト氏の青年のように生き続けることをしないで、自己の存在を抹消してしまう。命を軽くみるのは「ドイツ精神」の一部なのだろう。)
(言わずもがなだが、小フリイデマン氏の失恋は夫人の差別意識による悪意と拒絶の表明にある。)

トービアス・ミンダーニッケル 1898 ・・・ タイトルの貧相で黒ずくめの男は子どもたちにバカにされている。あるとき、子犬を買って自宅で飼うことにした。そこなしの献身と憐憫、しかしサディスティックないたぶり。モッブがもつ受け身の屈従と小心が弱者への加害になる。大衆社会に現れる差別意識なのだろうなあ。

衣装戸棚 1899 ・・・ 20代後半の旅の男がローマに行く列車から不意に降りて、知らない町の下宿を借りた。巨大な衣装戸棚に裸の女がいて、いつとも知れぬ昔の話をする。死地にある男はその話を聞くともなしに聞く。「ヴェニスに死す」の遥かな先駆。以下はもうほとんどモッブ@ハンナ・アレントの心情を記したものだ。自己の低評価と他人への無関心。神に愛されていないために得た退屈と自由。

「――ほんとに気の毒だね、お前さん、とファン・デル・クワアレンは思った。力を貸してあげられるといいのだが。席を取って安心させてあげられるといいのだが。お前さんのその上唇のためだけにでもね。だが、めいめい自分のことをするよりほかはない。そうできあがっているのだ。だからわたしは、この瞬間、なにひとつ心配のないわたしは、ここに突っ立ったなり、まるであおむけにころがっている甲虫でも眺めるように、お前さんの様子を見ている――」
「今までだれ一人こんなではなかったろうと思うほど、孤独無縁だ。おれにはなんの用事もなんの目的もない。身をもたすべき杖すらもない。これ以上よりどころのない自由な無関係な人間は、どこにもあり得まい。何人もおれのおかげをこうむっていないし、おれもまた何人のおかげをもこうむっていないのだ。神は一度だっておれの上に手を伸べたことはない。」

 

 トーマス・マンは「リューベックの富裕な商家に生まれ」たとのこと(wiki)。実業の勉強をしているさなかに書いた短編が認められた後は、作家に転業する。このエントリーでは、「ブッデンブローク家の人々」1901年より前の20代前半の短編を読む。この大長編を26歳で書いたことも驚きだが、その余暇で充実した短編を書いているのもすごい。
 マンの小説のほとんどは上流階級を舞台にする。どうやって収入を得ているのかはわからないが、ともあれ明日の日銭を気にすることがなく、葉巻やコーヒーを嗜み、町の社交界に出入りし、似たような境遇の豊かな人々と会話する。労働者や下層民は町にもいるはずだが、作家の視界にはいることはない。せいぜい住み込みの家政婦や庭師たちが時々会話の相手になるだけ。
 こういう余裕のある人々ばかりの狭い閉じた社会で物事を政治を抜きにして考える。職業義務もないので、話題は哲学と音楽趣味に走る。こういう人々が「ドイツ精神」を育んだのだろう。彼らは閑で退屈なので、夢想しているときは幸福な気分になるのに、いずれ訪れる破滅を予感する。<この私>と世界は無条件でつながっていて、世界の破滅は<この私>の終わりであるし、<この私>が破滅したときは世界も終わる。であれば、なぜ<この私>は世界に介入するのか、ほっておいてくれ。
 こういうのが若いトーマス・マンの世界認識の様子。ドスト氏や大江健三郎のように「生きろ」という意思が弱いのだよねえ。かわりに教養はずば抜けている。
(<この私>が無目的であり世界が無価値であると思うようになると、資本主義の競争や居場所獲得から脱落したモッブ@ハンナ・アレントになってしまう。マンの小説のそこかしこにあるファシズムへの期待はモッブ的な考えの反映。ここでも「トービアス・ミンダーニッケル」がそう。マンとその小説のキャラクターがモッブにならないのは資本主義の強者で金を持っているからなのだろう。身もふたもない話だ。)

 


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2023/05/26 トーマス・マン「短編集」(岩波文庫)-2 20代なかばの短編 1900年に続く