odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)-1 戦時中、感化院の少年たちが無人の山村に置き去りにされる。

 (おそらく)昭和20年の冬。指導教官に引率された感化院の少年14人と「僕」の弟の計15人が山間の村に到着した。都会にあったと思われる感化院を疎開させる必要があり、山村が選ばれたのだ。その村は奇妙な緊張感が漂う。村人は少年たちを警戒して遠巻きにし、憲兵が村人に指図していた。少年たちは倉庫に閉じ込められる。翌朝見つけたのは、憲兵はおろか村人もいない無人の村。どうやら疫病が蔓延し、村を捨てて、治まるのを待つらしい。村と外をつなぐのはトロッコのみ。対岸にはバリケードが築かれ、監視されていた。村には、母を疫病でなくしたばかりの女の子と、同じく父を亡くした朝鮮人の子供「李」だけだった。村に閉じ込められた子供たちの7日間の生活が始まる。
  
 それまで著者は短編だけを書いていて、そこでは種々の閉塞状況における孤独と暴力を主題にしていた。その集大成になるのが、この第一長編。この村に残された少年たちは二重三重に閉じ込められている。すなわち、彼ら少年は大人たちに暴力的に監視されていて、ここに到着するまでに何度も別の大人に暴力を振るわれている。到着した村人からは排除されていいる。村には疫病が蔓延し、罹患者はその家から出ることを禁じられ、村人は接触しない。その村も戦時の日本から監視され暴力的に統治されている。そのうえ日本は無謀で無意味な戦争を周辺諸国に起こしていて、孤立無援の状態にある。二重三重にも暴力や権力が少年たちに覆っていて、容易にはそれを覆しえない。とりわけ少年たちに直接対峙する巨漢の村長や鍛冶屋は少年たちにいつでも暴力をふるうと脅し、実行する。15歳に満たない(と思われる)少年たちは彼らに抵抗できない。きわめてグロテスクで異様な社会であるが、それが当時の、そして現在(初出1958年)のこの社会であるというのだろう。
 そこに力のない、弱い少年たちが押し込まれる。さらに、村に疎開した都会の女性の娘、朝鮮人部落の少年、予科練を脱走したインテリ兵士が加わる。それぞれが弱者の属性を持っていて、村の社会で弱いものが集まる。彼らは閉じ込められた空間で、たがいに意思疎通することはなかったが、種々の祝祭的行為を通じて、「連帯」を広げていく。彼らが行ったのは、少年同士の喧嘩、死者の埋葬(感化院の少年一名、疎開した女性、朝鮮人部落の大人)、食物の分かち合い、犬のペット、かくまわれていた脱走兵の出現、罠でつかまえた野鳥をメイン料理にする宴会、降雪。突然の束縛からの解放で、少年たちは「自由」を感じ、放棄された村を勝手に使うことで獲得した「自由」を満喫している。このあたりの描写、高揚感は見事。初読は少年たちに近い年齢であったので、彼らの祝祭的な陽気さはとても魅力的に思えた。そこにある少年たちの性(勃起した男根を見せ合うとか放尿をからかうとか)も陽気さを引き立てるのだし、「僕」になつくようになった女の子との性交にはいたらない行為もまたほほえましいもの。
 でも、この突然の「自由」はかりそめのものでしかないことを「僕」と「脱走兵」のみが知っている。すなわち、脱走兵は閉じこまれた社会で何の自由があると少年たちに水を差し、弟が「このままでいよう」というのに「僕」は「何も知らない馬鹿な大人になる」と一蹴する。突然の、かりそめの「自由」は集団や組織にビジョンやミッションがないと、無軌道で放埓になってしまうという苦い認識がある。この小説はヴェルヌ「十五少年漂流記」のパロディとみることができるが(人数がいっしょ)、フランスの少年たちは孤島からの脱出というビジョンとミッションを持っていて、民主主義を理想的に実行したが、この感化院の少年たちはそのような目的がないので民主主義を行えない(なにしろ名前をもっているのは「南」と「李」だけ。他の少年は名無し。語り手の「僕」でさえ名前を持たない)。それは、小説の時間を同じころにフィリピンの島でとらえられた日本の俘虜たちも同様だった(大岡昇平「俘虜記」)。読者は少年たちを笑えない。

  

2017/02/14 大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)-2 1958年に続く。

<追記 2020/12/2>
 以下のような情報を記録します。

戦時中、京阪神あたりからの疎開者が中国地方山間部の部落にもやって来たそうだ。中には朝鮮人疎開してきた。神戸のあたりで商売をしていた朝鮮人家族に、祖父は空いていた親類の家屋を貸していたのだという。そのひとたちが疎開先を見つけることは、簡単なことではなかったのではと想像する。
父は、その家族からのお裾分けの朝鮮の料理が珍しく、美味しかったと話す。米など食べられない時代だ。自分にはご馳走だったよ、と。
村の中では隠れて祖父の悪口を言う者はいたよ、と父は言う。朝鮮人に家を貸すなんて何を考えてるのだと。だが誰も面と向かっては何も言わないし言えないものだった。

https://twitter.com/trailights/status/1333723436401659905 から
 まず、なぜ四国の山間部の村に朝鮮人の集落があったのかに想像力を働かせることがなかったことを恥じたい。落ち着いて考えれば、1920年ころから朝鮮から移住してきた人が工場や鉱山などがない山間部にいきなり行くわけはない(仕事が見つかりやすいのは都市)ので、そこには行政などからの強制があったと見なければならなかった。

うちの地元にあった戦中の朝鮮部落は、関西の手配師がしつらえたものだったそうです。鉄道トンネル工事のためだったようで、そのエリアの仕事が終わると飯場的な村自体が移動する。戦後、個人的に村に残ったひともいて、山間の村から数キロ下った街場に移住し、名を変え定着した例もあったそうです。
祖父のとこに疎開した方は、神戸で商売をしある程度の経済的基盤があったのではないかと想像してます。なので徴用工ではなく早い段階で留学や移住してきたひとなのかもしれません
それと別に、大阪の工業地帯で働いていて空襲で焼け出され、同僚の部落出身者の地元の村に一時的に身を寄せた例もあったみたい。実際に父の村出身のひとが連れ帰っていたそうです。

https://twitter.com/trailights/status/1333953777431298049 から
 補足していただきました。様々な事情があったわけです。