odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)-2 沈滞して生産力を失った共同体に活気をもたらすトリックスターはスケープゴートになって懲罰を受け放逐させられる。

2017/02/15 大江健三郎「芽むしり仔撃ち」(新潮文庫)-1 1958年の続き。
 

 山の中の村。それはすでに生産力を失っていて沈滞している。そこに外部のものが現れて、村をかきまわし、活性化して、彼はスケープゴートとなって懲罰を受けたり破滅する。このプロットはこの小説を嚆矢に、繰り返し書かれた。著者の執筆時の年齢に応じて登場する外部のもの(あるいは村の余所者や脱走者だったりする)の年齢も変わる。そうしたプロットの小説は「万延元年のフットボール」「懐かしい時への手紙」「宙返り」がある。「同時代ゲーム」もそのバリエーションだろう(「燃えあがる緑の木」シリーズもそうだと思うが、第1作しか読んでいない)。逆順に読み返しているので、この著者最初の長編はのちに書かれた長編を思い起こさせるなつかしさをもたらすものだった。
 ただ、のちの同じプロットの長編と異なるのは、村に闖入するものが完全に外部のもので、村との関係を一切持たないところ。のちの長編では村の視点を持つ人物がいた。彼は、村のシステムや階層を描き、村の疲弊の原因を調べ、村の歴史や神話を語っていた。ここではそのような解説者がいない。村に暮らす人々の多様さが失われ、たんに余所者(ここでは朝鮮人部落と都市からの疎開者)を抑圧する仕組みの構成員となった。
 そのような単純さは、感化院の少年グループにもあって、おそらく年長者である「南」と「僕」だけがリーダーシップをとり、それ以外のメンバーには個性がない(名前を持たない)。ただ一人の年少者(おそらく5-6歳)の弟がいる。そこに朝鮮人部落で一人残った少年と疎開者の女の子だけがいる。彼らを結び付けるのは、家族から放擲され、社会の厄介者になっているところ。弱いもの、虐げられているものが、社会のセイフティネットから棄てられる。そこにおいて、共感とか自助が始まる。そのときに、感化院とは無関係にこのグループに入れられた、すなわち少年たちのように犯罪を犯していない無垢なる存在としての「弟」とレオと名付けられた犬が通常では結びつかない人々を媒介する。弱いものからさらに弱いものと認知されるものが閉ざされた世界や極限状態において、弱さが強さに、守られるものが庇護するものに転化する。こういうのは神話の世界や災害時の被災者グループによくみられるもの。それがごく自然にあらわれる。
 彼らの祝祭は雪の日の宴会において最高潮に達するが、その瞬間において悲惨への転落が開始される。弱いもの虐げられたものの中でさらに弱いものがその弱さを露呈する。疫病に感染した犬が女の子を噛んで感染させ、その犬が「南」によって撲殺され(犬の撲殺は当時の著者の小説で繰り返される暴力の象徴)、弟が失意のあまり失踪する(どうやら増水した川に流された模様)。弱いものの中の弱いものが傷つき、健康を害し、排除される。それが祝祭の終焉。翌日には村人が帰り、彼らは監禁され、脱走兵は逮捕され屠殺され、祝祭の中心にあった死者が掘り返され火で焼かれる。村人は少年たちに暴力をふるうが、村の放棄(戦時下においては重大な違反行為)と感化院の少年を放置したことが発覚する恐れがあるとき、隠蔽のために姑息な取引を提案する。自分らの無法や不正を糊塗するために、弱者を暴力的に威圧するわけだ。少年たちの祝祭が華やかであっただけに、村人たちの暴力と臆病がグロテスクに増幅される。少年たちがそれを唯々諾々と受け入れるのは、感化院のみならず社会や家族から暴力と威圧のもとに置かれていたからだろう。
 その故にか、少年たちは内部メンバーに対する監視の目を持つ。裏切りが起きないように彼らは同調圧力をかけ(たとえば性器の露出のような遊びにおいて)、裏切りそうな人に圧力をかけ、しかしリーダーが裏切ると雪崩を打って全員がそれを反復する。ああ、書いていていやになるほど日本人的な社会であり、集団だ。裏切りや密告から免れたのは「僕」ひとりであるが、彼の個性とか思想にあるより、祝祭の日々にあってもっとも華やかな体験、自己を変革する重大な体験をした「選ばれた人」であったからだろう。唯一の恋人を持ち、未熟な性体験をし、弟を失う。これだけのことはもう一人のリーダー「南」にも、当然ほかのメンバーにも起こらない。7日間の村の生活で「僕」のみが子供から大人に成長したわけだ。その体験が「僕」を怒れる人に変え、取引も懐柔も拒否できる強さを獲得したわけだ。この回心というか変貌の意味は約20年後に再検証されて、「『芽むしり仔撃ち』裁判」において、「僕」と弟の確執があらわにされる。できれば続けて読むことを推奨。 大江健三郎「現代伝奇集」(岩波書店)
 もうひとつ。少年たちは「戦争をしたい。人を殺したい」という。「戦争をしたくない、殺したくない」という予科練の脱走兵を少年たちは決意性の欠如を理由に嘲笑する。それは、かれらが「選ばれた人」となって、至福の死を体験したいという(押し付けられた)欲望をもっていたからだ。その至高体験は昭和20年の冬にはまだ現実的であると思われた。その半年後の夏になり、敗色濃厚となって敗戦がまじかになったとき、少年たちから「選ばれた人」になる特権は奪われる。冬の村で実現できた祝祭は、その年の夏には実行不可能になっていた。そこから「遅れてきた青年」の意識が生まれ、彼らに至高体験を説いてきた力に対する失望と憎悪が生まれる。
 主題にこだわり過ぎて、硬い感想になってしまったかな。しばらくぶりの再読で驚いたのは、小説の技巧面。すでにこの小説がヴェルヌ「15少年漂流記」のパロディないし反転であるとか、大岡昇平「俘虜記」のような日本社会の摘出であると指摘したけど、もうひとつはトーマス・マン「ベニスに死す」の本邦版でもある。沈滞して瘴気に満ちた閉鎖空間、そこに忍び込む病魔。人々の狂騒と沈鬱。事態の推進がまずネズミの死体の発見であり、異邦人(感化院の集団疎開と観光客の違いあり)の到来を遠巻きにして口つぐむ現地の人々。次第に増える動物の死体、衰弱する罹患者、疫病除けの焚火そこから立ち上る異臭の煙。脱出不可能な空間に取り残された人々の不安と狂騒。このような細部が共通している。船倉と疫病という大状況での破局が忍び寄り、感化院の少年が村人の暴力を受けて放置され、生き延びるという中状況があり、主に「僕」に集中する。恋人、朝鮮人部落の少年、脱走兵とのコミュニケーションも進行する。それらが緊密に結びついて、終局のクライマックスに到達する。みずみずしい文体が少年の生態と心理を生き生きと描き出し、開巻後数ページで読者をつかみこむ。こんな傑作を23歳で書いたのか。日本の文学史の中でも傑出した才能。読み始めは悪口をいうつもりでいたけど、大絶賛になってしまった。これはすごいわ。1958年初出。

  

<追記 2019/8/9>
 この長編の22年後に、後日譚を書いた。「芽むしり仔撃ち」裁判 1980.2-4
大江健三郎「現代伝奇集」(岩波書店)
 この中編は「現代伝奇集(岩波現代選書)」でしか復刻されていない。自分は、「芽むしり仔撃ち」と「『芽むしり仔撃ち』裁判」を合本にした文庫を想像する。前者のリリカルで抒情的な中編に涙し、後者の明晰ではあるが迷宮めいた情報で混乱させられる。両方を統合するための努力が必要になる読書。それは文学の中級者になるためのよいプラクティス、演習になると思う。