odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ヴァン・ダイン「ベンスン殺人事件」(創元推理文庫) ファイロ・ヴァンスはアメリカ知識人が夢見た理想的教養市民

 株の仲買人で道楽者のアルヴィン・ベンスンが自室で射殺された。ソファでくつろいでいるところを正面から。道楽者で金に汚い被害者は人に恨まれていた。とくに、愛人にしている歌手(メトロポリタンオペラで歌った後独立)とそのフィアンセの大尉、道楽仲間の中年男とそのパトロン。弟とも仲は良くなく、秘書や家政婦もどこか秘密をもっているみたい。
 そこでマーカム検事は容疑者を絞っていったが、そのつど、気障でスノッブディレッタントエジプト学専門の高等遊民(日本のそれとは違って莫大な資産もちで、生まれてこの方働いたことがない)が口を出しては嫌疑を蹴飛ばしてしまう。マーカムは腹を立てるが、この高等遊民の知力には一目置かざるを得ず、あらゆる現場に立ち会わせ、あまつさえ訊問まで許してしまう。

 1926年発表の第1作。1920年代の長編探偵小説黄金時代の幕を開けた記念碑的作品。当時のベストセラー。あいにく、いまでは探偵小説の技術で評価するわけにはいかない。不思議な事件ではないし、意外な犯人もいないし、不可能を可能にするトリックもないし、斬新な動機があるわけでもない。21世紀に読み直すと犯人は明白であって、創元推理文庫で390ぺ―ジを同じ緊張感で読みとおすのは難しい。290ページに「読者への挑戦」をいれて、残りを解決編の30ページにしたほうがすっきりする。
 では、当時どこが新しかったのか。
・この小説は、知的スノッブで人情味の乏しいディレッタントであるファイロ・ヴァンスの英雄譚。当時のアメリカ(バブル経済期で、西洋で傍若無人な言動をして顰蹙を買っているものの金があるので文句を言えない)を象徴しているようなベンスンの死。真相を暴こうにも役に立たない官僚。そこにおいて、若いアメリカの知性と資産の持ち主が高飛車、皮肉、辛辣さをまき散らしながら解決する。そこに単なる無知で伝統のない成金ではないというアメリカのアイデンティティを反映できたのだろう。彼の知性は西洋の文学と芸術と人文学の引用に裏打ちされているというのも、まだアメリカが西洋にコンプレックスを持っていた反映か。
・この小説のストーリーは、警察の立てた仮説(=容疑者)をヴァンスが片端から否定すること。その繰り返し。これも権力の横暴を個人が歯止めするという痛快さにつながる。西洋的な科学や伝統の知をアメリカの若者が片端から否定して、それを乗り越える理論を構築するのだから。ここがこの鼻持ちならない探偵譚に人気が出た理由と妄想。
(その点の小説のストーリーはのちの笠井潔「バイバイ、エンジェル」で繰り返される。まこと、矢吹駆はファイル・ヴァンスの孫あたりになる。金持ちではなく、東洋思想の智者であるのが彼の売り。
 探偵の英雄的行為を書くことは、主人公を詳しく描写することにつながる。なので、この小説では読者の生活より数段上の独身の金持ちの優雅な生活が詳しく書かれる。あまりに詳細に書いたおかげで、次作以降ではヴァンスについて書くことがなくなる。「カナリア殺人事件」で書き方を変えたが、うまくいかない。しばらくはどう書くかの模索が続く。クリスティ「ゴルフ場殺人事件」も同じような悩みを抱えていた。)
・ファイロ・ヴァンスの探偵方法は心理的証拠を重視して物証はどうでもいいというところにあるとされる。実際、ヴァンスはそのように発言している。この事件でも、吸殻、銃弾などの物証が出てくるが、これは間違った手がかりとされる。その解釈はなるほど心理的といえるかも。でも探偵の方法に重要なのは心理的証拠ではなくて、美学的方法にある。ヴァンスは事件を「犯罪的作品」というしね(美学的探偵法は「カナリヤ殺人事件」のエントリーで詳述)。ちなみに、矢吹駆の現象学的推理なるものも、ヴァンスの方法に近いかも。なにしろヴァンスは「事件の現場に来て5分で犯人が分かった」と豪語するくらい。
  
・端役に「ホフマン」「プラッツ」という姓の人物が登場する。もちろんWWIの敗戦、その後のハイパーインフレアメリカに渡ってきたドイツ系移民である。ヴァンスもマーカムも他のアメリカ人も彼ら移民の苦労には無関心。
・語り手の「ヴァン・ダイン」はWWIでフランス戦線に派遣された経験を持つ。当然、死体をたくさんみてきた。その経験は、この事件の死体の観察に反映されない。戦場の、あるいは戦地付近の大量の死体は新大陸の個人の死には無関係だったのかしら。死体(および生前の言動と行動性向)はほぼ不問にされる。この死者への冷淡さ。(だから死者への無関心が際立つことで、生者の側のヴァンスが英雄的になる。)
(ここはタイトルの後の引用に顕著。

「『いや、なあに』とメースンはいった。『私はあなたの生命には興味はなかったです。あなたの問題をすっきりさせることが、私の唯一の関心事でした』」

 20世紀初頭の短編探偵小説が人間の深層心理や偏見を暴くことに関心を向けていたのが、ここに至って「死体」は解くべき謎の最初の物証にすぎなくなる。)


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 1930年にウィリアム・パウエル主演で映画化された。
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 全編室内シーンで、アクションなしの会話劇。これを全部見るのはきついなあ。二時間サスペンスドラマのアメリカ版とでも思えばどうにかなるかも(ヴァンス物の映画はどれも70-80分)。
 なんと、1974年にイタリアでテレビ映画がつくられていた。1時間ものの前後編。
Philo Vance - La Strana Morte Del Signor Benson
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 製作されたのは「ベンスン」「カナリア」「グリーン家」の三作品。

 どうでもいいメモ。訳注によると英訳が1918年にでたシュペングラー「西洋の没落」がヴァンスの話題にでる。当時のベストセラー。ヴァンスはフィルハーモニーニューヨーク・フィルのこと)にストラビンスキーの作品(タイトルは書かれず)を聞きに行く。「春の祭典」1913年のスキャンダルと名声はもう新大陸に届いていたらしい。グーセンスやストラヴィンスキー本人らの録音が1920年代にでていた。