odd_hatchの読書ノート

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ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」(創元推理文庫)-2 とヴァン・ダインの二十則「探偵小説を書くときの二十則」について

2017/04/26 ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」(創元推理文庫)-1 1929年の続き。


 ヴァン=ダインの「カナリア殺人事件」「グリーン家殺人事件」「僧正殺人事件」を読みながら、探偵小説は二つの物語が同時進行するのだなあ、というのを思った。すなわち、死体が発見されるなり、盗難が発覚するなりした探偵小説の幕開けでは、ドラマは完結している。激情なのか、怜悧な計算なのか、信念に基づくのか、狂気の発露なのか、暴力への防衛の結果なのか、いろいろな感情の発動とその結果の行動はもう終えている。探偵小説は終わったドラマの結果を発見し、ドラマを再構成する物語だといえる。
 そうすると探偵小説には二つの物語がある。現在の「事件」を捜査する探偵たちの挫折とそれを乗り越える叡智の物語。これは小説の記述の通りに進む。もうひとつは、事件の関係者の間で感情が煮詰まって犯行を決意した犯人が事件を実行する物語。こちらは断片的に語られ、時間の生起順には並べられない。そこで探偵と読者は過去の物語を再構成することになる。
 この二つの物語があるのは最初期の長編探偵小説のときから意識されていた。初期の探偵小説では第1部「捜査」、第2部「因縁」という二部構成だった。ガボリオ「ルコック探偵」、ドイル「緋色の研究」「四つの署名」「恐怖の谷」がその例。これは、謎の解決のカタルシスとか探偵の英雄視にそぐわないので、20世紀になるとすたれる(19世紀の探偵小説ではザングウィル「ビッグ・ボウの怪事件」が現在の物語だけを書いていて異色)。イギリスやフランスの探偵小説はその克服に、恋愛や冒険やゴシックホラーやユーモアなどを付け加えてみた。でも、今度は推理と謎解きの部分が弱い。
 ヴァン=ダインの初期長編の新しさはそれらをなしにして、捜査と推理だけで物語を作ったこと。会話や状況描写でほのめかされる証拠(ものとことば)の断片を集めて、最後にそれを組み合わせて意外な(あるいは奇想天外な)解決を論理的に提示する。その新しさや意味付けは脇に置いておくとして、このやりかたはとてもつまらない。謎‐捜査-解決の物語では一つの長編を持たせられないのだ。「ベンスン殺人事件」「カナリア殺人事件」がその例。なので、そのあと推理に主眼を置く現在の物語を工夫するようになる。その時、イギリスやフランスの探偵小説作家がやったような他の物語の形式や方法を取らないという制限をつけたときに、ヴァン=ダインの発明したのは
・謎-捜査‐解決の物語を繰り返す。事件を何度も起こして、推理の興味を引く。「グリーン家殺人事件」
・現在の事件にさらに謎を追加する。事件の意図がつかめないとか、ダイイングメッセージとか。「僧正殺人事件」
・過去の物語を重視しない。通俗的な動機(怨恨、利益の不当な獲得、逆上、信念など)で十分で、詳細な説明はしない。
 もちろん工夫はそれだけではなく、アクションや都市生活の流行などのエンターテイメントも取り入れるようになるのだが、重要なのはこの三つ。
 クイーンはこれらの手法をもっと洗練させ、組み合わせて、現在の物語をずっとおもしろいものにした。そのうえで、過去の物語でも面白さを追求しようとする。でも初期の作品では過去の物語が古めかしく、現在の物語のスタイリッシュさと齟齬をきたすときがある。たとえば「Xの悲劇」「エジプト十字架の謎」など。そこで過去の物語を説得力あるものにしようとすると、今度は現在の物語が静的になる(「フォックス家の殺人」など)。
 そうすると、両方をしっかりと書けたのは、ロス・マクドナルドくらいになるのかなあ。


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 ヴァン・ダインが1928年に書いた「探偵小説を書くときの二十則」はとても有名。抜粋や抄訳は多くの探偵小説入門のような本にのっている。ネットに全訳があった。
http://e-freetext.net/20rule_j.html
 冒頭でヴァン・ダインは「探偵小説は一種の知的ゲームである。いや、それ以上に一スポーツである。したがって、探偵小説を書くのにあたっては、とても厳格なルールが存在する」と宣言する。この前提に基づいた場合の探偵小説の公理をつくるというのがヴァン・ダインの考え。この前提を共有しないばあい、この「二十則」を公理とする必要はない。最後の項目を除けば、長編黄金時代に書かれたものから、個々の則に「違反」した探偵小説を見つけることができるはず(タイトルは書きませんよ)。たぶんほぼすべての則に対する「違反」事例が見つかると思う。戦後のミステリーは、この公理に違反するような作品をつくることによって、探偵小説の幅を広げていった。ユークリッド幾何学の公理を一部修正することで、非ユークリッド幾何学をつくったようなものか。それで探偵小説が新たなリアリズムを見出すことになる。
 この公理もまた時代や場所の制約をうけている、特に犯人について。犯人は個人でなければならず、個人的な動機でなければならず、殺人をして処罰されるとする。これは西洋の個人主義が前提。倫理や道徳を実現するのは個であって、その行為の責任は当人がとる。というのも、個人の行為を実現するのは当人の意思にほかならないから。このような近代化と個人主義を経験していない、ないし十分に定着していない場合、個人の行動が当人の意思には基づかず、強制や洗脳で実行する場合がある。それはこの国の探偵小説によく見られること(タイトルは書きませんよ)で、犯罪行為の責任主体が行為の当人ではないこともあり、犯罪の責任所在があいまいなこともある。それでも探偵小説が成り立っているのであって、「二十則」の公理系は普遍的でも一般的でもないことになる。
 さらに、たとえば次のような文。「真に魅力ある犯罪は、教会の重鎮とか、慈善事業を行うことがよく知られているオールドミスによって実行されたものである」「従僕を犯人として選んではならない」。これも書かれた当時のアメリカ社会を前提にしている。なぜオールドミスが魅力的な犯罪者とされるのか、従僕のような雇用人は魅力的な犯罪者になれないのか。その見方には、当時のアメリカの社会の偏見が反映されている(書かれた1920年代に、日本人移民がアメリカにたくさん行き、成金やブルジョアの従僕として従事していた。有名なのはチャールズ・チャップリンの運転手だった高野虎市)。探偵小説のような「スポーツ」に参加できるのは資産と社会的地位を持つ限られた人であるという前提がここにもある。高野のような人物はヴァン・ダインの探偵小説には存在しないことになる。ここでも「二十則」の公理系は普遍的でも一般的でもないことになる。(同時期のハードボイルドやサスペンスが、庶民や移民の犯罪や苦悩を描いたのを思い出すこと)
 ほかには探偵小説を「スポーツ」化する意味(すなわち、ゲーム化、形式化する意味)も考えてもいいかもしれない。謎-捜査-解決の形式にさらに規則を設けて、その規則の適応領域に引きこもる理由。そして、同時期にこの探偵小説の規則を破り別の規則を適用する試みが発生している理由(従僕や女性の存在に注目するハードボイルド、読者の物理現実に反する規則を導入するSFミステリー、探偵が登場しないで犯人や被害者だけに注視するサスペンス、犯人のことだけを描く犯罪小説、探偵が<事件>を発見して犯人と被害者をでっち上げるミステリ、ひとりで探偵・犯人・被害者を演じるミステリ、など)。
 この公理系は整理されていないが、むりやりまとめると、読者に対する要求、探偵に対する要求、犯人に対する要求となる。ことに細かく規定されているのは犯人に対する要求で、やってはいけないことがたくさんある。一方で探偵に対する要求は論理的であれということだけ。この非対称性はどこからくるのかしら。さらに探偵と犯人に対する要求と読者に対する要求は、小説の論理的なレベルが違う。ここがごっちゃにされているのは、公理系としてはできがわるい。しかし、のちになると、探偵・犯人・被害者の人物のレベルがあるところに、作家と読者をいう別のレベルにあるものを導入することも試みられる。
 まあ、中井英夫「虚無への供物」竹本健治「匣の中の失楽」はこの「二十則」を厳密に守ると小説内で宣言していながら、結果はこの公理を破りまくった作品になってしまった。公理を厳密に実行すると、その公理が破たんするという、まるでゲーデル不完全性定理を実証するような事態。
 それらを思い起こすと、この不完全な(しかし当時は完全と思われた)公理を提出することが、探偵小説の可能性を広げたと言える。そうすると、これはヒルベルトの公理主義であり、この公理を破ることは、ゲーデル不完全性定理でなりたないことを証明し、しかし数学の可能性を広げたのと並行関係にあったといえる(かもしれない)。