2017/09/21 筒井康隆「文学部唯野教授」(岩波書店)-1 1990年 の続き
「大いなる助走」で同人誌の世界を風刺した作者は、今度は大学文学部をオワライの舞台にする。アカデミーの人たちが身に着けた権威ほどの知性の持ち主でもなくリーダーシップを持っているわけでもないと暴露されたのは1960年代の大学紛争時。それから20年たった1980年代後半になると、大学や研究室の運営におかしなことが次々でてきて、知性やリーダーシップのみならず常識もなさそうだとみられるようになった。まだセクハラやパワハラという言葉はなかったが、研究室に女性を連れ込んで暴行した男性教授がいたり、研究室運営などのトラブルで助教授(だったかな)が教授を刺殺したとか(小説に出てくる「黄色い砂」はその事件のできごと)。作家は大学やアカデミーとは無縁だが、その職につく知己は多く、また多くの情報提供者を得て、このドタバタコメディを書いた。公には批判が多かったが、私的には「この通り、実はもっとひどい」という共感が集まったという。おれは大学やアカデミーには無縁で、小説の誇張をおもしろがるだけだが、その職にある人にはリアリズムなのね。
饒舌な唯野仁教授がいる。ただのひとと名乗るだけあって、俗物でスノッブで風見鶏で権威には弱い。40代で教授になれたが、その推薦を得るために買収やら接待やらの運動をして、主任教授のごまをすり、ライバルを蹴落としてきた。教授になるととたんに勉強しなくなるものだが、このひとは理論の構築とその実践としての創作をやっている。物語はそのような二面性をもっている唯野教授に半年間に起こる学内のドタバタ。パリ留学中となっている友人を別の大学教授に押し込むための運動、なじみのバーのホステスとの情交、匿名で書いた小説が芥兀賞を受賞、そのためのマスコミの追っかけ、学部の享受たちの嫉妬とやっかみ、エイズ罹患の噂のある助手の発狂などなど。それらの事件が起きるごとに、教授や助教授や講師たちがみっともなく、ハレンチで、幼児的な反応を示す。
大学教授が職業として確立したのは19世紀になってから(この国では後半になってから)で、大学の数が少なくて教授のなり手も少なかった。職業の担い手がごく少数であり、そのうえ専門用語を駆使して訓練を受けないと読めない文章を書くものだから、彼らは国家と学問の権威を身にまとう。戦後になると、大学の数が増え、ポストの数が増えて、かつてのような厳しい選抜はできなくなり、教授に求められた「モラル」も要求されなくなった。そこらが教授などの研究者集団の質の低下になったのだろう、とこの小説を読んで納得する。幼児性があるものだけが学内政治で勝ち抜いて昇進したのか、学内の政治活動で勝ち抜くと幼児性を持つのか、そこらはよくわからない。まあ、文学理論も混迷したうえで、権威を喪失して、相対主義に出していったみたいだが、それに歩調を合わせるように研究者集団もだめになったのか。救いがないなあとため息をつきたくなるのは、この小説の早治大学文学部の教授会や研究室の運営や構成員が、大岡昇平「俘虜記」でみるような強制的な無権力状態でこの国の人がつくる組織にそっくりになるところ。けっしてイギリスのジェントルをベースにしたケンブリッジやオックスフォードのような個人主義の組織にならないのだよなあ。
さてそれから四半世紀。この間の長期不況と高齢化社会は大学の運営にも変化をもたらしたとみえる。twitterでフォローしている大学の研究者のつぶやきをみると、この小説のような幼児性を持った教授などは淘汰されたようで、人事はすっきりしてきたと見える。しかし潤沢な研究費はもらえず、教授たちの事務仕事は増え(代行していた教務員などが削減されたから)、文科省などの改革要求に振り回され、学生の質の低下に悩んでいる。とりわけ文系の予算は削減されるばかりであって、優秀な研究者は私学に異動する。こうなると、1990年の「文学部唯野教授」もノスタルジアの対象になっているかもしれない。
哄笑しながら読みながらも、すこしいらだたしくなるのはエイズの描き方。なるほど1980年代後半にエイズ感染は大きなニュースであり、社会の関心事であった。そこにはエイズ罹患者への偏見もあった。この小説ではその偏見にとらわれた教授や助教授たちの無知と差別がデフォルメされて書かれる。差別する者を馬鹿にしているのはよくわかるのだが、そのうえにエイズ患者への悪意も感じられて、居心地が悪い。(笠井潔「オイディプス症候群」でも同じ居心地の悪さを感じた)。