odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「虚人たち」(中央公論社)-1

 1980年代に出た新潮社の全集24巻に「マリオ・バルガス=リョサ『緑の家』」というエッセイが収録されている。そこに

「ついに結末を迎えたとき、読者に残るのはこの手法に対する感動である。(略)手法に対する感動の如く感じられるところに、この小説の新しさがある。今までにいったい、その手法に対して感動する、などといった小説が存在し得たであろうか。(P151 週刊文春昭和56年8月6日号)」

とある。「緑の家」が複数の語り手による複数の物語でできていて、何の説明もなく、だれかの会話がいきなり別の物語にワープしたりする。それが最後に至って、ひとつのシーンにまとまる。その中心にある「緑の家」の威容が立ち現れる。なるほど、自分も「緑の家」を読んだとき、さまざまな物語(5つの物語が3つに収れんするのだそうだが、読み取れなかった)にちりばめられた情報が一つの絵にまとまるのに感動したのだった。その時感動の質を自分の言葉で表現できなかったのだが、筒井のエッセイを読んで氷解した。
 では、この国の文学で「手法に対して感動する、などといった小説が存在しえたであろうか」と問う。「いいや、なかった」と自答し、だから「おれが書こう」と決意して、筒井康隆の80年代の長編が書かれたのである。「虚人たち」はもとより、それ以後に書かれた「虚航船団」「夢の木坂分岐点」「驚愕の曠野」「残像に口紅を」「文学部唯野教授」「朝のガスパール」がそう。これらの小説でも、主題(そんなものがない小説がある)よりも、手法や技術がめざましい。よくもまあこんなことを思いつき、それを徹底し、しかも文字で書ききったものだ(そこまでやった作家はめったにいないのに)、という具合に。
(まあ、小声で言えば、この国にも小栗虫太郎「黒死館殺人事件」夢野久作ドグラ・マグラ」、沼正三家畜人ヤプー」のように手法に感動する奇作怪作はぽちぽちとはあったのだが。メインストリームの文学では埴谷雄高、安倍公房、福永武彦のように手法や技術に関心を持つ作家は少数ながらいた。また時を同じくして、大江健三郎「同時代ゲーム」という手法に感動する小説は現れている。)
 このような実験小説を読むときには、「朝のガスパール」に書いてあるように、「時間をかけて、ゆっくりと」読む(改めて「朝のガスパール」を検索したが、該当する部分がないぞ、おれの幻覚か?)。読書の貴族の面持ちで、優雅に読むのだ。少なくとも、メモを取り、記憶に頼っては思い出せないような細部を記録しておき、途中で反芻する時間を持つ。場合によっては、ページを元に戻し、細部を確認することも必要(このような優雅で貴族的な読書をするには電子書籍リーダーは不向き)。なお、当の小説がどのような手法で書かれているかは、筒井康隆の場合、本文中で説明されているので、それもメモを取っておくようにする。
 で、「虚人たち」だが、初出の1981年というとル・クレジオ「巨人たち」という小説があって(たしか「みだれ撃ち涜書ノート」で取り上げていたと記憶する)、そのもじりであるのは自明だった。とはいえたぶんル・クレジオの小説そのものはこちらと関係ないはず(「巨人たち」は未読なので)。また、「虚人」といっても埴谷雄高「死霊」のように、「実」の反対であり、存在の根拠を生成しているような「虚」の場所やそこの住人というわけでもない。「虚(構の中にいてそのことを自覚している)人たち」という意味。たいていのフィクションの登場人物は、自分が投げ入れらている世界や状況に疑問を持たないし、不条理や暴力を降りかからせる「作者」の存在には無関心だし、ほかの人物を関係があらかじめ「ある」ことを不思議に思わないし、選択や行動の可能性が「作者」によって制限されていることに苛立たしくならないし・・・。作者と登場人物の暗黙の前提を意識することはない。だからこそ、読者の物理現実ではめったに起こらないような事件も許容するし、そういう人格や行動性向を持つ人に会うことなどまずありえないのに、小説を読むことができる。でも、その暗黙の前提や共有事項を問うような人が小説に出たら、どうなるだろう。
 彼は自分がそこに「ある」根拠がを持てないし、何をしていいのかわからないし、自分の認識できる外のことにはなにもない(この「ない」も読者の物理現実でであう「ない」とはとても違う)。テレビドラマの俳優が、カメラは意識できるのに、周囲に誰もいないし、台本もない状態で、とりあえずの「物語」を手探りで進める感じ。同じ場所にいる相手と会話で意思を疎通することもかなわず、役割と演技を確認しようにも演出家も監督も進行担当もいない。でもカメラが回っているので何かしなければならない。物語の進行はぎくしゃくする。そのぎこちなさは、物理現実にいる読者が人生で感じる不受理や不愉快とはまったく一致しない。読者は想像力を働かせないと、彼らのぎこちなさは理解しがたい。

  

2017/10/06 筒井康隆「虚人たち」(中央公論社)-2 1981年