小説を読みながら、政治や文化の知識も教えられるというのは稀有なこと。「純文学」と呼ばれるような小説ではめったにお目にかからず/かかることが少なく、むしろ多くのエンターテイメント小説で見ることが多い。吸血鬼退治のバイオレンス小説で人類の起源が論じられたり、密室殺人の謎ときにハイデガーやフーコーの議論が紹介されたり。このエンターテインメント小説では20世紀の文学理論が紹介されるのである。小説の中で文学理論が出てくるのは面妖であるが、主人公が英文学教授でその講義を実況したのであるとすると納得する。講義で取り上げられるのは
・印象批評
・新批評(ニュークリティシズム)
・ロシアフォルマリズム
・現象学(フッサール)
・解釈学(ハイデガー)
・受容理論
・記号論(ソシュール)
・構造主義(レヴィ=ストロース)
・ポスト構造主義(デリダ)
後期の講義に登場すると予告されながら実況されなかったのは、フェミニズム、精神分析、マルクス主義、フーコーであり、教授自身による「虚構理論」。
とりあえず西洋に限ると、文学について語るのは前からあり、貴族のパーティやサロンでの駄弁であった(その雰囲気を記録しているのが、ラ・ロシュフーコーの「箴言録」)。それが大学で語られるようになり(「文学部」は中世にできたが古典を講話するもので、現代文学や詩を講義するようになったのはいつからだろう。夏目漱石の留学時にはロンドンの大学ではやっていたのかな)、今までの印象や主観で文学を語ると普遍性がなく恣意的だということになる。そこで、他の学問の方法や成果をとりいれて「科学的」になろうとしたのが、上記の文学理論の歴史。参考にしたのは、歴史、宗教、哲学、美学、言語学、記号論、民俗学、政治学、心理学など。で、その歴史をこの講義で見ると、他の学問や科学の方法を取り入れた結果、最初に批判したはずの印象批評、好き嫌いの評価と同じところにいます、ぐるぐる回って同じところに戻っちゃいましたね、とまとめられるか。
発売と同時に読んで(たしか店頭に並んだ初日1990/02/18に買ってその日のうちに読了)、そのときは現在進行中のことが書かれているなあと思ったのだが、四半世紀がたつと、バブルの最後のころの浮かれまくった時期の記録だなあと懐かしく回想する。1980年代後半から(とくに浅田彰「構造と力」のブームのあと)に、上記の哲学者が注目されて、さまざまなところに登場したのだった。彼らの登場によって消えたのはマルクスとマルクス主義。ソ連の崩壊や東欧の脱共産主義はそのあととはいえ、アフガン侵攻と中越戦争、ゴルバチョフのペレストロイカでもって失望が広がっていたのだった。そのときに、とりわけ構造主義とポスト構造主義の「どんな立場も取らない」というのは、政治的な立場を明らかにしないでなにごとかを言うのに便利だったのだろう。政治的な挫折を経験していない若者には、政治的な権威の代わりにこれらの個別な哲学者らの言説に寄りかかって物事をだべっていたのだろう。というような、1980年代のポストモダンの悪口をしておく。
さて、それからさらに四半世紀たって、文学理論はどうなったのか。自分はリサーチしていないのでよくわかりません。もしかしたら、1945年以降には問題にしないようにしてきた、「政治と文学」がもう一度クローズアップしているのかもしれない。というか、911や311のような21世紀の事件のあと、ポスト構造主義やポストモダンのひとたちが中身のないことしか言えず、古い愚直なリベラルのほうが「正論」をいっているような風潮になっているから。その影響は文学や文学者に波及していると思う(思いたい)が、さてどうか。
あと、小説には「榎本奈美子」という美貌の女子大生を唯野教授が追いかけるという話もある。冒頭から数回目まで登場し、そのあと姿をみせなくなる。唯野が小説家として最初のサイン会をするラストシーンになって、彼女は再登場する。彼女は文学理論に出てくる「理想的な読者」の謂いなのだろう。作家は自作を誤読されることに耐えなければならないが、うれしいのは「理想的な読者」に出会うことなのだね。この話は「聖杯の探索」とまるで同じ。
2017/09/20 筒井康隆「文学部唯野教授」(岩波書店)-2 1990年 に続く。