紀伊・産浜のリゾートホテルに作家・石坂は招かれる。ブランドファッションをテーマにした仕事をするためだ。ホテルには優れた支配人に美しい妻、見事なコックらがいて、完璧な接客を見せる。ホテルの会長が招いた客は、作家の他に、助教授、実業家夫妻、大手企業の開発部部長の女性、地元の不動産業者社長など。一元の客はお断りの上、一度に宿泊できるのは6人までというエグゼクティブ向け。みな高価な服で身に包み、グルメで、酒に詳しく、高級なホテルの滞在に一部の隙もない。そういう日本離れした「貴族」的な人々。ただ、辣腕の開発部部長はフェミニズムの論客でもあって、父権制社会を強烈に批判し、男性の無自覚な差別を糾弾する。最も使用するのは鋭い舌のみである。
さて、全員がそろった翌日から、連続殺人が起きた。まず不動産会社社長が、そして支配人の妻が、最後に開発部部長が。地元の人々は羨望はするものの、あまりに敷居の高いホテルには気軽に出入りできない。部屋のみならず、ホテルにも出入りが困難な二重の密室殺人事件になった。所轄と県警の警察が捜査を開始するが、なかなか進展しない。情報もすくない宿泊客は事件を語りだし、さまざまに推理する。一見関連のなさそうな被害者たちを殺したのは誰か?
表層はこんなミステリー。まずはミステリとしてきになるところから。
・一泊数万円かかるホテルで、一食数万円かかりそうな食事を、一着数十万円する服を着て楽しむ宿泊客。このような人物たちが登場するミステリーはこの国の作としては極めて珍しい。乱歩の時から探偵小説は無銭の高等遊民の白昼夢として書かれてきた。昭和30年代のリアリズムを目指した社会派では、たいていの主人公は安月給で生活に追われる警官か記者。なので貴族や富豪で事件が起きても、捜索するものは貧乏人か薄給の公務員。そういう歴史は今でも続いている。ところが英米ではブルジョアや貴族で起きることで、探偵も金を持つか抜群の知性で彼らから尊敬を受ける者たちだった。なので、このミステリーはとても英米的。それこそ20世紀初頭の探偵小説の黄金時代を思い出しました。
・そこらへんが反映されているために、宿泊客やホテルの描写はとてもロマンティック。美貌の女性に独身男性が惚れて、三角や四角の関係ができ、それは角突き合わせないで、優雅で気取った身振りと会話を交わす。そのかわりに、普段ミステリーでは描かれないマスコミと葬儀の様子は背景に退いているもののリアリズムで書かれている。これは、この国のミステリーが事件の関係者の描写がリアリスティックで、背景のできごとをロマンティックに描くのと対照的。この二つを合わせて、この小説はとても珍しいところで書かれている(自分の知っている「富豪刑事」「ロートレック殺人事件」は似ていても、ここまでは達成していないので、たぶん唯一)。
・作家の石坂も、その他の宿泊客もこのホテルに滞在する間、上流階級のごときふるまいと装いを通す。石坂が離れている妻と電話するとき、会話の口調は庶民のそれだ。宿泊客は生まれながらの上流階級のマナーをもっているわけではなく、このホテルに滞在している間、上流階級出身者の役割と仮面をかぶる。そして上流階級になり切る演技を押し通す。人はTPOに応じてパーソナリティを変え、複数の人格を演出できる、という認識に基づくものだ。そこから数年前の「夢の木坂分岐点」まではひとまたぎ。もしかしたら、この小説も集団セラピーのごときものであったかもしれない。で、役割と仮面、演技と模倣はこの一連の犯罪の主要テーマであるので記憶にとどめておくこと。
もう一つ重要なのは1989年初出のこの小説は、「文学部唯野教授」と同時に書かれていること。
・「文学部唯野教授」では、後期の講義で「フェミニズム批評」が取り上げられるはずであったが、書かれなかった。驚いたことにこの小説にその講義がある。西洋にしろ封建時代にしろ、社会では父権がとても強く、女性の権利が制限され、家事育児などの労働が無償で行われ、出産も男の意思で決定されていた。それに抗して女性の権利を尊重し社会の抑圧から女性を解放しなければならない。以上、きわめて粗雑なフェミニズムの議論。これが文芸理論で有効になるのは以下の文脈で。すなわち小説は18世紀初頭にパトロンを失って商業化された。同時に小説を受容する層が小説批評を公的に担ってきたが、20世紀にそれが機能しなくなる。読者の大衆化であるし、小説の批判する対抗公共圏(ブルジョアとか貴族とか)が失われたから。対抗公共圏のない批評は私的でタコツボ化して批判機能を失うが、フェミニズムの対抗する父権制社会が文学批評の新たな対抗公共圏になる。というわけだそうだ。ま、フェミニズムもさまざまなスクールに分かれているので、一つにまとめるのは難しい。
・という理論の話だけでなく、「フェミニズム」は殺人事件に深くかかわっている。それは男性と女性の恋愛と性交という場面において。詳細を書くと事件の真相を暴露することになるからここまで。
・石坂がこの産浜ホテルにいそいそとでかけるのは、「6年前のすばらしい夏」の記憶があるため。なにゆえに「すばらしい夏」になったのか。つい最近ホテルにくるようになった松本、竹内、長島らには決して明かさない。ホテルの従業員も口を割らない。最後にようやく「全員が全員を愛した」ことだけわかる。はて、なにがあったのか手がかりは少なく、たとえば石坂がしきりにホテルの支配人の妻を「美しい」と口にするくらいか。最後にようやく「全員が全員を愛した」ことだけわかる。たぶん現在の殺人事件にリンクするなにかがある。この謎は解かれない。そこに向けて読者は想像力を働かせる。
たいていのミステリーは小説の中で閉じてしまう。これはその逆に、事件の解決後にいろいろ考えることがあり、ほかの本や思想に関心が広がっていく。こういう開かれた読書ができる「ミステリー」「エンターテイメント小説」は稀有。気軽に手を出して、驚愕させられました。すばらしい。
(あとずけでいうと、主人公の脚本家・里井が「こんなに幸福でよいのか」とうっとりする「美藝公」がこの小説の「6年前のすばらしい夏」なのかもなあとも思った。あの小説では誰もが誰もを思いやり敬意を払う関係になっていたから。でも、「美藝公」は1980年初出で9年まえになるから無理か。)
おおそうかそういうことだったか。この事件では、「6年前のすばらしい夏」の記憶にかかわるらしい重要人物が被害者になったわけだが、そこには「中年の主人公が自分の大切なものを次つぎに失っていく(「残像に口紅を」)」テーマが隠れているわけだ。その喪失感を持った者が最後の章で、謎解きをする。これは事件の関係者による事件の振り返りであり、役割のみなおしであるのだが、これは「夢の木坂分岐点」の集団セラピーと同じだ。インストラクターの指導があって、誰かが別の人を模倣する演技をしながら、他者の理解や自己の発見に到達する。この小説では感情の浄化ではなく、事件の真相に至った。