odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

D・M・ディヴァイン「悪魔はすぐそこに」(創元推理文庫)

 ハートゲート大学の無能と評されるハクストン博士が横領の疑いで教授会の審問を受けようとしている。失職を恐れた博士は友人の息子ピーターに仲裁を頼むがはぐらかられる。審問で博士は過去のスキャンダル(ピーターの父にかかわること)を暴露すると息巻き、直後にガス中毒で死亡する。なるほど過去のスキャンダルが問題であり、その調査をしていたピーターの元恋人は不審者に殴打されるわ、学生が図書館でいたずらをしかけていたら不審者に殺されるわ、あまつさえ名誉教授の就任式を中止しないと死者が出るぞと脅迫状が届く。過去を知る大学の関係者は一様に緊張し、疑心暗鬼になり、スキャンダルの真相を知ろうとキャンパスをうろつき、現在の事件の犯人を捜す。警察官も関係者の聞き取りをするものの、容疑者5人まで絞ったがその先に進まない。
 過去にあったのはある女子大生が妊娠したのを堕胎して亡くなったという話だ。その父親を目されたのが指導担当の数学教授(ピーターの父)。噂は構内をかけめぐり、精神を病んだ教授は自殺同然に死亡する。どうもハクストン博士はそのときの事情を知っていて暴露するつもりだったらしい。父の名誉回復と父へのコンプレックスを持つピーターは事件の捜査を開始。不審者に殴打されたピーターの元恋人カレンは亡くなった女子大生の妹で事件を調べている。ピーターの母の手元には、教授の手紙や資料が残されているが、現在の恋人ルシールの目前で燃やされる。しかも容疑はルシールに集まり、ピーターは気が気ではない。そこで法学部長のラウドンやカレンの助言を求め、ルシールの嫌疑を晴らそうとする。はかばかしく進展のないまま、テロ予告のある名誉教授の就任式が始まろうとしている・・・

 途中までメモを取りながら読んでいたけど、人物がたくさん登場するのであきらめた。この時代の大学関係者は町の中に住み、オフタイムも行き来していたから、町全体が構内のようになる。事件の関係者は大学職員で多くは教授や講師。なので、彼らの人格は立派なものだと思いたいものだが、事件終盤になっての述懐で「殺人事件がわきでる状況ではそれぞれの変わったところばかりが目につき、だれもかれもが人格異常者に見えてしまって仕方がない」といわれる。なるほど、これは筒井康隆文学部唯野教授」か夢野久作ドグラ・マグラ」の開放病棟で起きている事件なのね。実際、教授や講師にはエキセントリックな人物が多く登場し、作者の筆も彼らの欠点を隠さないものだから、どの人物に感情移入していいかわからなくなる。円満な人格に見えるのはラウドン法学部長だけど、この人も妻を事故でなくし、自分も足が悪いので、そのことに悩みっぱなし。ピーターも父ほどの才能を持っていないと感じるようになり、婚約者の高い自立性にコンプレックスを抱いている。そういう欠陥だらけの人々が出てくるというのがまずこの小説の趣向。
 もうひとつは、ストーリーは現在のことしか書いていないので、過去のスキャンダルの情報は時系列をごっちゃにして断片的にあらわれる。なので、読者は現在の容疑者の動向を把握すると同時に、過去の事件を再構成しなければならない。ここは読者の知的タフさが要求されるとことろ。こういう構成はハードボイルド小説によくある。ハードボイルドは探偵一人が情報を集約するが、ここでは複数の人物が捜査しているので、それぞれの情報には不足があり、全体像の把握がなかなか困難。
 事件そのものには探偵小説的な趣向はない。博士のガス中毒も鍵のかかった密室状態であったが、鍵は複数の人物がふれることができたので、トリックはない。他の事件も同様。ここでは人物の的確な描写をじっくり楽しみ、錯綜したプロットをきれいにほぐし、この事件を起こした意図を上手く隠した手腕を楽しもう。この作家は自分には未知の人だったが、すごい技術の持ち主。
 この小説で感心したのは徹頭徹尾、技術で書かれたところだった。ここには探偵の苦悩はないし、蘊蓄の披露はないし、作者と読者の暗黙の了解破りもないし、犯罪に対する考察もないし、モラルやヒューマニティへの懐疑もないし、社会批判もない。自分のように探偵小説からはみ出す問題を見つけたがるものには、ページを閉じればすぐに忘れてしまうような作品なのだが、読んでいる間は多いに魅了され、驚かされた。イギリスの探偵小説はこういう技術だけで読ませるものだったなあと、ミルンからクリスピンイネスフィリップ・マクドナルドジェイムズ・ヒルトンノックス等の作品のあれこれを懐かしく思い出した。

(文庫の法月綸太郎の解説が秀逸なので、これは読んでおくとよい。「謎解きが終わったら」(講談社文庫)に再録されていたような気がするが、どうだったかなあ。あと、もうひとつこの小説を賞賛できないのは、岡嶋二人「そして扉が閉ざされた」と同じ理由。おかしいなあ、ブレイク「野獣死すべし」ヘレン・マクロイ「ひとりで歩く女」はすごいと思ったのに。)