odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

フィリップ・K・ディック「宇宙の操り人形」(朝日ソノラマ文庫/ちくま文庫)

 これからPKDの長編のレビューをするが、配列はポール・ウィリアムズ編「フィリップ・K・ディックの世界」(ペヨトル工房)の長編作品一覧に基づくことにした。すなわち、PKDの長編には死後出版されたものがあり、出版年と執筆順は一致しない。この「フィリップ・K・ディックの世界」の長編一覧には、PKDのエージェントであるスコット・メレディス著作権代理店(SMLA)の原稿受理日が載っている。その日付の方が執筆順に近いと思うので、これを採用することにする。よくあるPKDの長編目録の並びとは異なります。ご了解のほど。
 では行ってみようかGo!



 最初の2編を収録した朝日ソノラマ文庫が出たのは1984年。後ろの2編を追加したちくま文庫が出たのは1992年。同じ訳者で、たぶん本文に手を加えていないと思う。ソノラマ文庫版には挿絵がついている(イラストレイターは不明。表紙は青木拓麿さん)ので、こちらもどうぞ。って、絶版品切れだけど。

宇宙の操り人形 1957 ・・・ バートンは1年振りに故郷バージニア州ミルゲイトに戻ってきた。しかしそれは故郷ではなかった。新聞社で18年前の記事を読むと、しょう紅熱で死んだことになっている。おれはいったい誰だ、何が起きたのだ。バートンは妻と離婚する覚悟で、街にのこる。奇妙なのはその町には「ワンダラー」と呼ばれる透き通った姿が動いていて、街の人は不思議に思わない。下宿のピーターはこの町は「バリア」で囲われていて、18年の間誰も入ってこれなかったのに、どうして入ったかといぶかしがる。バートンは脱出しようとしたが、ピーターのいうとおり、幹線道路は封鎖されていて、遠くの山に透明な巨人が横たわっているのが見える。失意のうちに町に戻ると、元テレビ販売店の店主、今は老いぼれたクリストファーがいて、街を念動力で復元しようと試みていた。クリストファーの実験はいつも失敗する。なぜならもう過去の記憶があいまいだから。そこで過去をもっと詳しく覚えている<異邦人>バートンが試して見すことにした。
 キング「呪われた町」みたいな、シーゲル「ボディ・スナッチャー」みたいなアメリカの地方都市を舞台にしたSFホラー(当時はそういう呼称はない)。短めな長編あるいは長めの中編というサイズであるが、街が復元しはじめ、ピーターの逆襲が始まるころからどんどんスケールが大きくなる。ついには善神オーマズードと破壊神オートマンの数億年の宇宙レベルの闘争にまで飛び火し、スケールの大きくなること(笠井潔「ヴァンパイア戦争」全11巻が200ページ強に圧縮されていると思いなせえ)。ここにはラブクラフトクトゥルフ神話の影響もありそうだ。
朝日ソノラマ文庫の挿絵。乱歩の通俗長編みたいな雰囲気がよい。)
 

 ここでの注目点。故郷に帰ってきた男が直面するアイデンティティ喪失の危機。故郷の姿がまるきり変わっていて(1950年代では地方都市の変化は緩やか)、誰も彼を知らない。そして町ではなにかのプロジェクトが進行していて、ただひとり蚊帳の外。そういう疎外と孤独のモチーフがすでに表れている。ゴーレム(粘土人形)、蠅、ミツバチ、ネズミ、蛾などが発話し、人間と意志の疎通ができること。これものちに繰り返される。古い町がまやかしで覆いつくされて、念動力で元の姿に回復できる。のちのスクランブルスーツとか、刷り込まれた記憶とか。こういう後の諸作との共通性が認めれる一方、この小説には無力感や退廃感はなく、希望をもって物語は終える。主人公たちは意欲的で行動的。冒険を終えた主人公は新たな自己を発見し、変容した事故を受け入れ新生活に入る。この活力と健康さはのちに失われていく。
 1953年8月19日SMLA受理、1957年出版。出版は「虚空の眼」のあとだが、執筆は「偶然世界」より前。


 以下は併録された短編。
地球乗っ取り計画 1953 ・・・ 屋根裏部屋でずっと報告書を書いている爺さん。興味を持った子供が爺さんの部屋に入り、9人の妖精みたいなものをみつけ、盗み出す。爺さんはプロジェクトAを終え、Bの報告書を書き、これからCを始める。そのために、妖精を返してくれという。爺さんはビー玉遊びで決着をつけようといい、子供はそれに応じた。ここでは子供の欲望は挫折する。50年代SFのお約束を外すのだが、その直後の怒涛の展開と地と図の反転。町の一角のできごとが人類史に拡大する一瞬。

地底からの侵略 1955 ・・・ 100年前の戦争から地下に住処を求めてきた。ときどき地表に出ては、「まぬけな」ホモ・サピエンス狩りにでる。若者が無理やり参加して、地表の暮らしを興味深く眺め、コミュニケーションを試みようとしたが。核戦争の恐怖があった時代に、ホモ・サピエンスを「まぬけ」といいきり、相対主義で地表人と地底人を批判する辛辣な視線。

奇妙なエデン 1954 ・・・ 遠方に人の来ていないフロンティア惑星を見つけた。観光地として大儲けできると皮算用をしたが、田舎の家があり、若い娘がいる。彼女は1万1千年も生きている多種族。人目ぼれした男性隊員は、彼女をものにするために種族に変わりたいといった。すごい変容をうけるのよ、といわれても、情熱はさめやらず熱い接吻を交わす。人間ホモ・サピエンスの価値を転倒させる一編。彼女の周りにいるおとなしい動物たちが重要な伏線。


 これらの小品を読むと、1950年代のアメリカ地方都市はSFの恰好の舞台だったのだを思う。人口は数百から数千人。だいたい顔を知っていて、よそ者が来るとすぐにわかる。草の根民主主義があって、市長や警察長官をトップに市民が治安に関心をはらっていて、集会がすぐに行われる(ただし抗議のデモは行われず、市長や議会へのロビイングが政治活動の中心)。町は数㎞四方にあって、自動車を道路で走るとすぐに無人の荒野や山や渓谷に出てしまう。そういう共存と孤立がないまざった場所。
 問題が起きても、外部に助けを求めるわけにはいかないし、外部の情報もなかなか伝わってこない。なので、侵略者やゾンビ―が現れると、その街の中だけで対処しなければならず、部族社会(トライブ:〜数百人)、首長社会(チーフダム:〜数千人)の規模の集団では亀裂や分断がおきて、適切な対処ができない。なにしろ無派閥で高圧的に群衆を鎮圧できる軍隊を持てないサイズだ。そうすると、大状況の危機と、中状況の危機対策がうまくからみあって、SFやホラーの良い舞台になるのだなあ、と。
(このあとのPKDの小説では、このサイズの集団や共同体が舞台にならなくなっていったのではと思い出す。もっと大きな人口の都市や国家が舞台になって、個人や数人〜数十人の小規模集団が巨大な力に対処するようになった、その結果、個人の孤独や妄想が大きくなっていった、それはアメリカ社会の変容に対応した変化であった。)