odd_hatchの読書ノート

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フィリップ・K・ディック「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」(ハヤカワ文庫)

 PKDの長編は登場人物が多くて、それぞれがしばらく脈絡ないストーリーを進めるので、しばらく何が本筋なのかわからないことが多いのだが、この長編は3人にフォーカスしているのでわかりやすい。とはいうものの、10ページごとに筋がずれるので、追いかけるのは一苦労。どうにかやってみようか。

 太陽系に人類が進出して惑星や衛星に植民している時代。あいにくどの植民地も農業生産性にとぼしく自活には程遠い、といって、地球は人口が多すぎて割り込む余地がない。なので、単調な労働に疲れ新たな社会の建設に挫折した人々は、過去の思い出にひたる。その装置がパーキイ・パット人形(短編「パーキイ・パットの日」参照)とキャンDというドラッグ。それを供給しているのは、レオ・ビュレロ率いるP.P.レイアウト社(P.P.はパーキイ・パットの頭文字)。企画開発にプレコグ(未来予知能力者)を雇って、P.P.の流行を事前に知っておこうという戦略で成功してきた。あわせてキャンDの密売も行って、莫大な利益を上げている。そこに脅威が起こる。数年前に行方不明になった実業家パーマー・エルドリッチが新しいドラッグを携え、太陽系に帰還してきた。さっそく新しい人形とチューZというドラッグを販売する企業をつくる。レオはパーマー・エルドリッチの野望を打ち砕くべく、月へ、火星に飛ぶ。パーマーはレオにチューZを服用させるなど裏をかいて、レオを窮地に追いやる。
(キャンD:キャンデー、チューZ:チュージー(こだわる)の語呂合わせで、ダブルミーニングなのだろう、たぶん。)
 P.P.レイアウト社のプレコグであるバーニィ・メイヤスンは、離婚した妻エミリーのことを気にかけている。エミリーとよりを戻したいが、彼女の支配欲で虐げられるのを繰り返すとなると、躊躇せざるを得ない。上司のレオはバーニィの失策(エミリーのつくった壺:これはPKDの愛好するアイテムなので注意すること を採用しなかった)をせめてオリイが悪くなり、火星に移民することを決意。しかしそれはレオによるパーマー・エルドリッチ攻略の戦術であった。火星でバーニィはチューZを入手し、エルドリッチの組織に入り込む。
 ここまでが全体の半分。よくありそうなスペース・オペラ(PKDに限っても、「偶然世界」「タイタンのゲームプレーヤー」みたいだし、火星の植民地は「火星のタイムスリップ」の地続きにありそうだ。また火星の植民地は短編にでてくる核戦争後の荒廃した地球とそこに残った小さなコミュニティにそっくり)。
 でも、異様な感じになるのは、チューZというドラッグを服用するところから。このドラッグは強烈な幻覚作用をもっているが、色や音や味覚などの抽象的なイメージを産むのではなく、過去の体験や個人の欲望イメージを具体化するところ。憧れやノスタルジーが実態になってしまって、それが中毒性をつよめてしまう。さらに、この幻覚世界には、パーマー・エルドリッチが義手・義眼・入れ歯を付けた改造人間になって、だれの幻覚の中にも現れ、その幻覚の中では神として支配する。なので、服用してしまったレオやバーニィはエルドリッチの罠から抜け出すことができず、失望や抑鬱、ときには死を体験したりする。そのうえ、トリップから覚めても、幻覚の強烈なイメージは残り、現実と幻覚の区別がつかず、エルドリッチが遍在し先回りして、バーニィを支配しようとする。ここはキツイ。たいてい神は現実を超越して善悪の判断のよりどころになるという認識にあるのだろうが、このチューZの幻覚内では神は世界を改変する能力や他人に変身する能力をもっていて、神の監視といたずらから逃れることができない。エルドリッチの能力はのちにSF的な説明がつくのだが、重要なのはPKDが神の存在や救済について考え出したというところだろう。
 というのは、バーニィ・メイヤスンはこれまでのPKDの男性主人公の常として、仕事ができても理不尽な理由で解雇され未来を失い、結婚しても妻の支配欲によるサディスティックなふるまいに悩み、別れていても縁を切ることができない。そのうえ、失業や遠い世界に派遣されるという生活の激変時には、複数の女性が現れ、妻とは違う性向をもち魅かれるのであるが、彼女らに翻弄される。ここでは助手になった支配欲や権力志向のあるロニー、初期キリスト教の教えを守ろうとするアンがそれにあたる。これにエミリーを加えた3人の誰を選択するかがバーニィのもうひとつの物語(ときにエルドリッチに対抗する任務を忘れてもこちらを優先する)。ここではアンがこれまでにないキャラクター。宗教に熱心である彼女は自閉的で、身体を嫌悪する(まあ自殺願望があるのかも)。同じく自殺願望を持っているバーニィは、彼女を掬うことが自分の問題を解決すると思いつく。チューZで身体も精神もぼろぼろになっても、それを達成しようと思い込むのだ。バーニィはアンを救済した、しかし自分自身を救済することはできない(というのはのちの「ヴァリス」のテーマでもある)。
 このバーニィの苦闘はレオやエルドリッチとの話し合いのなかでうやむやに。でもエルドリッチは、チューZを服用したもの全員の幻覚に現れて、服用者の意識をコントロールすることができる。エルドリッチの行為には目的がない。チューZを服用すると「昇天」と呼ばれる至高体験に入るが、そこに現れるエルドリッチはトリックスターのごときいたずらと悪だくみを楽しむだけ。バーニィとの接触では、レオによる暗殺直前であって、バーニィの意識と合一して、身体を入れ替えるという芸当まで披露する。人間からすると、存在してもなんらの価値や意味をもたない。どころか自分のトラウマを思い出させ、コンプレックスを拡大する厄介な存在。そんなのが神としていつも自分の脇にいて、自分の行動性向を呪縛する。もしかしたら、チューZの至高体験は救済をもたらすかもしれない。しかし誰もが救済されるとは限らない。そういう暗く苦い世界認識が漂う。
 それを受けてか、この小説の結末はあいまい。これまでは陰鬱さや無力感や諦めが突然転調して希望や期待があらわれたものだが、ここにはそんなものはない。エルドリッチは遍在し、レオは勝利する可能性が希薄な戦いに挑もうとし、バーニィは途方に暮れるだけ。どうにもキツイ、しかし抜群に面白い物語。表層のSF的仕掛けにだけ注目してはダメだな。
 1964年3月18日SMLA受理、1965年出版。

(J・ワグナー「彼の書いていた世界の中で@サンリオ編集部「悪夢としてのP・K・ディック」」によると、PKDは1963年に神秘体験をした。空いっぱいの顔がPKDをみているというビジョン。この顔のイメージがパーマー・エルドリッチに反映しているとのこと。)