odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」(中公新書) 1990年代に「慰安婦」問題が起きてから解決に向けた取り組みを総括。成功と失敗の政府と市民の運動の記録。

 第1-2章にあるように、1990年代に「慰安婦」問題が起きてから解決に向けた取り組みを総括。成功と失敗の政府と市民の運動の記録。

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第1章 「慰安婦」問題の衝撃 ・・・ 1991年に韓国女性が名乗り出て、事実が確認された。1994年の村山内閣のときに被害補償の取り組みが始まる。償い金(と医療福祉保障)を政府と国民で負担、政府によるお詫びの手紙、再発防止策の検討など。
(この時点で事実性はあきらかであったが、右翼が拒否の論陣を張る。中身はお粗末。)
第2章 アジア女性基金とメディア、NGOの反応 ・・・ 1995年7月にアジア女性基金発足。このあとフィリピン、韓国、台湾、オランダ、インドネシアの元慰安婦への償いほかの施策を実施しようとしたが、ほとんど成功しなかった。
(国内の理由は、民間の支援不足、政府と官庁の消極性、メディアの批判など。国外では政府・NGOの反対、メディアの批判など。大きな問題は政府(国家)による謝罪と補償を求めたのにたいし、民間の基金と組織が使われたことが大きな理由。左翼右翼のイデオロギッシュな反対がある。成功したところでは現地NGOの協力があったことが大きい。)
第3章 被害者の視点、被害者の利益 ・・・ アジア女性基金は設立時から批判と誹謗を受けてきた。大きくは、右翼による誹謗中傷と歴史改ざん主義。慰安婦問題は戦後責任と果さない日本の歴史観と、女性の尊厳の侵害というジェンダー観から批判される。ただ、基金への批判がすべて正当であったとは思わない。被害者は多様であり、思いは変化するのであるが、批判者(メディアとNGO)は過剰な倫理主義で償い金を拒否してきた(金も/を必要とする被害者は多数いたのである)。批判者は「被害者の聖化」を行い、現実の問題の解決を遅らせたし、被害者の抑圧にもなった。
(今から思えば、元慰安婦には女性差別と人種差別の複合差別があり、彼女らを攻撃することも囲い込むことも、被害者に沈黙効果を強いることになったといえる。さらに被害者の補償と、あるべき補償の姿と、未来の抑止政策の議論がごっちゃになって、目前の問題を矮小化した。さらに、1990年代の韓国は民主化達成直後であり、反日ナショナリズムが強かった。敬座成長中であり、日本の金を頼りたくないという意識が強かった。これも解決を遅らせた理由のひとつ。日本政府や官庁、企業も消極的であったのも重要。)
第4章 アジア女性基金と日本政府の問題性 ・・・ 基金には知名度のあるタレントがいたが生かせなかった。広報が不十分で、政府から派遣される事務局が不熱心。政府も自民党政権になってから熱意がなくなった。
(政府や役人が不熱心なのは想定内なので、やはり市民運動NPOなどとの提携や支援がないとこういうのはうまくいかないのだろうな。10年代の反レイシズムの運動は議員と市民団体の連携がうまくいっている。まあ、国外機関や国家との交渉などがないから、基金ほどの面倒さがないのが理由だろう。)
第5章 償いとは何か―「失敗」を糧として ・・・ アジア女性基金が「失敗」なのか。どこが失敗か。
(この章は冗長。ヴィジョン、ミッションの設定に対する達成度で成功、失敗をみたほうがいいのじゃないか。なるほど政治動向に左右されて、当初掲げたヴィジョンやミッションがグダグダになって測れなくなったのだろうとも推測。ページの多くは法的責任と道義的責任について検討している。法学者だから重要な課題と思うが、もっと具体に降りた議論をしないと。たとえば、21世紀の人種差別撤廃条約では、法律施行、ヘイトスピーチの被害者からの通報、救済、加害者の処罰や教育、人種差別の啓蒙や教育など具体的な施策がいくつもあって、それを実施することが求められる。抽象的な責任に関する議論はあまりなくて、実施可能な具体をどう実現するかが問題になる。そういう議論にした方がよい。)
終章 二一世紀の日本社会のあり方 ・・・ さまざななステークホルダーに対する意見。

 

 本書では1990年から2007年までをおさえている。この時期、自分はすっかり社会的な問題に背を向けていたので、いくつかのできごとは記憶にあっても、全体をまるで知りませんでした。なにもしない傍観者でした。誠に申し訳ない。
 さて、その後の大きな出来事は、2015年12月28日の慰安婦問題日韓合意。

www.mofa.go.jp

ja.wikipedia.org


 過去の経緯をよく知らないので、この合意についても、いいんじゃないの、この方向ですすめていけばいいのでは、くらいの感想しかもてません。
 本書では1990年代の韓国の「反日ナショナリズム」にてこずったと繰り返されるが、それから20年が経過して、韓国の国民感情は変化しているような気がする。とくに、2016年冬の大統領退陣要求の100万人デモで退陣を実現させ、逮捕するまでに至った経験が大きな変化をもたらしたように思う(あわせて、韓国の企業が世界中で評価――日本企業の低落と同期――もか国の自信になっていると思う)。そのうえ、2018年には冬季オリンピックを契機にして、北朝鮮との対話を実現させるまでに至った。ただちに「慰安婦」問題の解決になるかどうかはわからないが、これからは韓国のイニシアティブで東アジアの外交が変わるのではないかとも思わせる。
 国内の運動に関しては、歴史捏造主義による「慰安婦」問題への攻撃(右翼)と過剰な倫理主義による国家責任の追及(左翼)があり、全体としての無関心と同調主義的文化(それらにもとづくコリアンへの差別意識)がある。いずれも改善ないし打倒が必要。自分のこの数年の見聞でいえば、市民運動ではもっと緩く実現可能なことからてをつけていけばいいのではないかな。倫理や責任を追及するお勉強会や啓蒙だけでは広がらないし、歴史捏造はヘイトスピーチといっしょに発せられて害悪を垂れ流しているからこれには強く抗議やカウンターをする必要がある。抗議者やカウンターはみな勉強家で、身につけた知識を発信するすべを持っている。そういうところに希望を見出そう。